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ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

映画「沈黙」を見て、京都の寺にこもっていた日々を思い出す

 

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マーティン・スコセッシの最新作は日本が舞台?」

 

そのことを知って、私は驚いた。

映画ファンなら一度は「タクシードライバー」を見たことがある人も

多いかもしれない。

 

マフィア映画の帝王とも言われる監督だ。

そのマーティン・スコセッシが日本を舞台にした映画を作るという。

江戸時代に長崎にたどり着いたキリスト教伝道師が主人公らしい。

 

彼がずっと抱え込んでいた「宗教」という問題に真っ向から挑む超大作だ。

 

彼は幼い時をニューヨークのリトルイタリーで過ごした。

映画「ゴッドファーザー」や「レオン」の舞台になった地だ。

 

イタリア系の移民が集まり、街を形成している。

 

私は3年ほど前にニューヨークのリルイタリーに行ったことがあったが、

映画で見たとおり、独特の雰囲気のある街だった。

 

本当に「ゴットファーザー」の街なのだ。

おしゃれなイタリア系の料理店が立ち並び、街を歩く人もイタリア系の人が多かった。

 

観光客で賑わう大通りの裏には、たぶんマフィア関係の人も集まっているのだろう。

 

華やかである一方、ちょっとした怖い街なのだ。

 

そんな街、リトルイタリーで幼少期を過ごした彼は、周りの同級生が次々とマフィアの世界に入っていき、自分は取り残されていったという。

 

そして、結局彼は教会に入ることになる。

 

教会の神父になるには、常に純潔でなくてはならない。

女性とも一切関係を持ってはいけないのだ。

 

だが、大の女好きだったマーティン・スコセッシは神の教えに背き、女性と関係を持ってしまう。

 

キリスト教と自分の欲望の狭間に苦しみ、彼は神父になることを諦め、映画の世界に足を踏み入ることになる。

 

そんな経験がマーティン・スコセッシ監督の中に眠っているためか、彼が作る映画は

どこか人間の欲望についての話が多い気がする。

 

ウルフ・オブ・ウォールストリート」など、オープニングからかっ飛ばして、ドンチャン騒ぎだ。

富と権力に執着する人間の欲望がこれでもか! というくらい描かれている。

 

3時間ノンストップで乱行パーティーなのだ。

 

この映画のイメージが強くあったので、マーティン・スコセッシ監督の最新作となると、ちょっと躊躇する自分もいた。

 

また、あのドンチャン騒ぎの映画を見ることになるのか……

 

70歳を超えているのに、元気だよな。

 

 

そんなことを思って映画館に行った。

 

窪塚洋介などの日本人俳優が数多く出演していることで話題になっている「沈黙」。

もちろん映画館は満員だった。

 

ゆとりを持って、前日に席を予約して正解だった。

 

 

映画が始まる。

 

スクリーンが真っ暗になった時、不思議なことが起こった。

 

本編が始まらないのだ。

 

鳥のさえずりしか聞こえてこないのだ。

 

風の音に耳を澄ましていると、気づいたら本編が始まる。

 

私は驚いた。

 

映画館にいるのに、自然の中にいる感覚に陥ったのだ。

 

私は鳥のさえずりを聞いているうちに、あることを思い出していた。

 

京都の寺にこもって座禅修行に励んでいた日々のことを。

 

 

 

「出家してやる!」

 

私はその時、気が狂っていたと思う。

好きな女の子にフラれ、自暴自棄になり、夜道を走り回っていたのだ。

 

友人に電話しては、泣きながら、「ちくしょう!」と叫んでいた。

 

初めて本気で好きになった女の子だったので、フラれて死ぬほど苦しかったのだ。

 

失恋ってこんなにつらいものなのか? と思った。

 

恋をして敗れ、夜道をのたまっていると、気づいたら朝になった。

 

精神も落ち着いてきたが、昼過ぎまで熟睡した。

明日はアルバイトがない。

 

もうどうにでもなれ。

 

そう思って、ずっと眠っていた。

その時にふと、寺にこもって修行しようと考えたのだ。

 

なぜ、そんなことを思ったのか今でも不思議だ。

 

学生時代、授業で「禅」について習っていたので、前から「禅」には興味があった。

 

しかし、本格的に「禅」を勉強したいと思うようになったのは失恋がきっかけだったのだ。

 

 

今思うと、失恋したから、京都の寺にこもろうと考える私も変わっているなと思う。

 

しかし、当時は本気で修行しようと思っていたのだ。

 

インターネットで調べてみると、京都のある寺で修行体験をやっていると書いてあった。

私は早速予約した。

 

2月のある日、私は京都に降り立った。

行きは金がもったいないが新幹線で来た。

京都駅から30分ほどで、その寺のある最寄駅が見えてきた。

 

そこから山道を20分ほど歩く。

2月の京都はとても寒い。

 

山道を歩いているだけで、凍えそうになった。

 

豊臣秀吉が京都にいる明智光秀に奇襲をかけるために駆け抜けたと言われる

山道を私も歩く。

 

400年前にこの道を豊臣秀吉は主君の無念を晴らすために、走り抜けたと思うと感慨深いものがあった。

 

山道を登っていくと、寺が見えてきた。

門の中に入っていくと、修行体験はこちらへと書かれた立て看板があった。

 

 

寺の玄関で待っていると、弟子のお坊さんが集まってきた。

そこで寺での生活の注意点をいろいろ聞き、荷物を持って禅堂に集まるように言われる。

 

禅堂には私以外に10人ほどいた。

休み時間に話を聞いてみると北海道大学の学生から東大生までもいた。

 

東大生の人になぜ、寺に修行しにきたのか尋ねてみると、

「就職が決まってたのに、留年してしまって自分を鍛え押すためにも修行するしかないと思った」

と答えていた。

 

なかなか変わり者だった。

 

他の参加者に聞いていくと、人間関係に疲れて、一息入れたい。

会社勤めも苦しくなって、自分と距離を置くためにも寺に来たという人もいた。

 

精神的に苦しいことがあって、一旦自分を見つめ直すために京都の寺に修行に来たという人が多かった。

 

夕飯の時間が近くなり修行体験が始まる。

スケジュール表を見て、驚いた。

 

明日は接心と呼ばれる日で、月に一回朝から晩まで座禅に励む日だという。

朝5時起きで夜の12時までひたすら座禅である。

 

きつくないか……

今日、寺に来たばかりなのだが……

 

寺の住職に

「明日は接心の日だと知っていて、今日入山したのか?」

と聞かれ、私は「知りませんでした」と答えたら、

 

「ま、これも何かの縁だと思って頑張って下さい」

と笑いながら答えていた。

 

 

絶対、きついだろう。

 

 

さっき15分の坐禅をやってみても、足がしびれて苦しかった。

それなのにいきなり17時間ぶっつけで座禅なんて……

 

 

シャワーの時間に他の入山者に話を聞いていると、

「いきなり接心の日に当たるなんて、大変だね」

と笑いながら言っていた。

 

なんでこうもタイミングが悪いんだか……

私はそう嘆いているとあっという間に就寝の時間が近づいてきた。

 

真っ暗闇の中、布団に入って私は眠りについた。

もちろん、あまり眠れない。

 

明日は17時間の坐禅か……

耐えられるかなと不安のまま、深い眠りについた。

 

 

「ゴーン!」

寺に響き渡る鐘の音に驚いて、私は飛び起きた。

時刻は午前5時だ。

 

普通に眠い。

他の入山者は慣れているようで、パッと布団をたたみ始める。

 

そして、10分以内に座禅の体制に入った。

 

私は何がなんだがわからないまま、座禅をする姿勢をした。

しばらくすると禅堂に住職が入ってきた。

声を一切かけることはない。

 

「チーン」と合図がなり、本格的な座禅に入る。

 

今日の予定では40分間の座禅の合間に10分ほどの休憩があり、

それが夜の12時まで続く。

 

もちろん途中朝ごはんなどの休憩はある。

 

休憩の時間以外はひたすら座禅だ。

 

座禅開始から10分ほど経ってから、すでに足は痺れ始めていた。

 

きつい。

 

座禅ほぼ初体験の私にはとても新鮮な光景だった。

 

普段サラリーマンをやっている人から、OLまで一列に並んで、座禅を組んでいるのだ。

私は目を細めて、外の物音に耳を傾けた。

 

朝の5時の京都の町並みは人っこ一人いない。

 

静けさだけが漂っている。

その中でも、かすかだが風の音や葉が散る音が聞こえてきた。

 

 

気づいたら「チーン」となって休憩の時間になった。

 

接心の日は休憩時間でも一切喋ってはいけない。

皆、静かにストレッチを行い、足をほぐしていった。

 

私も全力で太ももの筋を伸ばしていた。

今、ちゃんとストレッチをしていないと後々きつい。

 

再び禅堂に集まって、座禅が開始される。

 

その座禅と休憩を15回くらい繰り返した時には、もはや私の足は限界に来ていた。

 

辛い、辛すぎる。

足がしびれすぎて、血液が回ってないのがわかるのだ。

 

私は住職にバレないようにお尻を動かし、血行を良くする作戦に出た。

音を立ててないつもりだった。

しかし、

 

「動くな!」

と住職に怒鳴られた。

 

ごめんなさい……と心の中で唱えながらも私は座禅に集中した。

 

足のしびれの痛みを忘れるためにも無になるしかない。

 

そこから私は本気モードで座禅に打ち込んだ。

 

心を空っぽにするのだ。

足の痛みなど忘れるくらい意識を遠のかせると、いい座禅ができるのかもしれない。

 

その時だった。

 

周りはもう夕方の4時過ぎだっただろうが、自然と体が一体になっていく感覚が味わえた。意識を遠のかせると風の音と自分の体が同化していく感じがしたのだ。

 

自然からエネルギーをもらっているかのような感覚がした。

 

いい気持ちだなと思った。

無意識だったがそう思った。

 

「チーン」となって休憩の時間になった。

 

私は不思議な感覚に陥っていた。

あの心地よい一瞬はなんだったんだろうか?

 

妙に風の音と体が一体化した感じがしたのだ。

 

それからも座禅に打ち込み夜の10時過ぎまで来た。

残り2時間だ。

 

 

最後に夜座と呼ばれる座禅をすることになった。

2月の寒空の中、寺の庭で座禅を組むのだ。

 

さすがに寒いので厚着を着ることは許されていた。

 

私はジャンバーを二重に来て、寺の境内に集まった。

 

見事な日本庭園を見ながら、夜座に打ち込んだ。

 

そこは確か滝ノ間と呼ばれる場所だったと思う。

雨が降った時、滝のように雫が滴りおちるので、そのような名前がついたのだという。

 

庭の池には鯉がいる。

その鯉が何分かに一度、水面に上がってきて、呼吸する音が聞こえた。

そんな自然の営みを感じながら時は過ぎていった。

 

「チーン」

住職が接心を終える合図を出した。

 

 

私はその日はぐったりと眠った。

もう何も考えられないくらい疲れていたのだ。

だけど、眠りの底であの妙に気持ち良い感覚になった瞬間を思い出していた。

 

一瞬だが自然と一体化したような感覚。

あの感覚は一体何だったんだろうか。

 

 

翌日も朝から座禅は続いた。

昨日のような接心の日ではないので、短時間の座禅で終わった。

 

そして、夜になり寺の境内に集まって住職の話を聞く時間になった。

説法というやつだ。

 

住職はこう語る。

「悟りは特別なものではなく、寺の庭を掃除している時など、ごく普通の日常の中で

ふと、感じるものなのです。昔のお坊さんは、特別な宗教的なものではなく、日々の私たちの行いを大切にすることを説いていました。心を無にして、風と一体化する瞬間を大切にしてください」

 

 

私は住職の話を聞いている時に、日本に古から伝わる信仰心を少し感じた。

西洋は神を絶対的な存在として崇めていたが、日本人は大自然の中に神の存在を見ていたのだ。

 

自然の中に信仰心を持っていた。

もののけ姫などを見たらわかりやすいだろう。

 

古来から伝わる想いを感じた瞬間、妙に私の心は癒されたのだ。

都会の雑音で行き場を失っていた私には、とても貴重な経験だった。

 

 

マーティン・スコセッシの「沈黙」を見ているときに、私はその時の感覚を思い出していた。

自分の肉体と自然とが一体になる感覚。

 

この映画はオープニングとエンドクレジットが鳥のさえずりだけが流れる。

日本の信仰を尊重する監督の意図だろう。

 

鳥のさえずりや風の音に耳を澄ましていると、妙に落ち着いてくるのだ。

 

西洋人には、日本人のこの独特な宗教観を理解するのが大変だと聞いたことがある。

論理的思考を重視する欧米の価値観には、直感を重視する日本人の価値観が理解できないことも多いらしい。

 

 

しかし、この映画を見ていると日本人より欧米人の方が、日本のことを理解しようとしていることに気づいた。

 

私は邦画をあまりみるほうではないが、ここまで日本古来から伝わる想いを映画にしようと試みた日本人はいるのだろうか?

 

欧米人の方が日本のことをしっかりと学ぼうとしている。

 

この映画は3時間近くあり、正直、長いなと思う人もいるかもしれない。

監督の宗教に対する問題意識など詰め込まれていて濃厚な3時間だ。

 

しかし、私はこの映画を見てよかったと思った。

 

日本古来の考え方や思いを感じることができたのだ。

 私はもっと日本古来から伝わる古の思いを勉強しなければならないと思った。