ライティングこそ、生きづらさを抱える人には特効薬になるかもしれない
「つらい時は、新しい刺激をもらうよりも、ここまで戻れば大丈夫というな所を作るのが大切だったりする」
映画好きの人が集まるコミュニティーに自分が参加した際に、ある人が言っていた言葉だ。
あるテーマに沿って、自分が好きな映画を熱狂的に語る会だ。
私はこの数ヶ月のうちに2回ほど参加させていただいたが、毎回熱がこもったプレゼンが続き、予定時間を軽くオーバーしてしまう。
今回も明らか、予定の2時間を軽くオーバーしそうな勢いだ。
私の目の前にいた女性が自分の生きる指針にしている映画について熱く語っている。
「つらい時があったら「西の魔女が死んだ」を見るんです。魔女の教え通り、毎日の生活をきちんと行えば、つらいことも吹き飛んでいくんです。一歩立ち止まる勇気をもらえるんです」
私はこの言葉に感動してしまった。
確かに、つらいことがあった時は、新しい刺激をもらうより、ここまで戻ればいいという指針がもらえた方が良かったりする。
その女性は西の魔女の教え通り、毎日の生活を大切に生きる主人公の少女を自分と重ねて見てしまうらしい。
つらいことがあった時は、西の魔女のことを思い出すのだという。
「西の魔女が死んだ」という映画は、完全にその女性の血と肉になっているんだと思う。体の中に浸透するぐらい、思い出深い映画なんだ。
10人ほど集まって、熱く映画について語る会も終盤になってきた。
もうすぐ、私が発表する番だ。
どうしようか。なんの映画を語ればいいか……
私はまだ決めかねていた。
何の映画を発表するのか決めていなかったのだ。
どうしよう。目の前の女性のように熱く語れる映画なんてあるのか。
私はとっさに思いついた。
16歳の頃に見て、24歳になった自分に多大なる影響を与えていた映画を。
「17歳のカルテ」です。
そう私は発表した。
「17歳のカルテ」とは、境界性パーソナリティ症候群という病に悩む少女が、
精神病棟に入ることになる、そこの患者たちと交流を深めるに連れて、自分を取り戻していくまでの物語だ。
アンジェリーナ・ジョリーの出世作になった映画だ。
「16歳という多感な時期にこの映画に出会えてよかった」
と自分は語ったと思う。
自分にとって、この映画は……
つらいことがあった時は、ここまで立ち戻ればいい
という指針を教えてくれる映画なのだ。
境界性パーソナリティ症候群というのは、何も不安がないけど、何かが不安で、精神的に不安定な状態のことを言う。
不安がないことが不安で仕方がないのだ。
思えば、私もそのような節があった。
私は東京育ち、東京生まれで、ごく普通のサラリーマン一家に育ったが、
普通であることがコンプレックスだったのだ。
常に宙に浮き足立っていて、生きている実感がわかなかった。
映画について語っているとある人はこう言った。
「きっと君みたいな子が、今の世の中には多いんだよ」
その人は、田舎の農家出身だった。
東京に出てきても自分が帰る場所がある人は結構うらやましい。
田舎の農家に生まれ育ち、親も自営業を営んでいるので、子供の頃から生きる術が体に身についているのだという。
大地に野菜を植えて、それを食べて毎日を生きて行くということを子供の頃にしていると、都会に出てきても、
「大地の野菜さえ食っていけば、何とかなる」
という思いが、頭の片隅にあるのだという。
だから都会でどんなにつらいことが起こっても
「ここじゃなくても自分は生きていける」
と前向きに思えるのだ。
だから田舎出身の人は強いんだなと思った。
子供の頃から自営業を営む親を見て育ち、大地からの恵みを肌で感じていると
生きていく強さが自然と身につくのかもしれない。
それに比べ、私のような都会で育った人間はどうなのか?
大都会という片隅で、無機質なビルに囲まれ、毎日のように満員電車にぎゅうぎゅうに詰め込まれて生きていて、正直生きているという実感がわけなかった。
何が不安で、何かが満足できないという悩みが常に私に降りかかっていた。
都会で育った人にとっては、他者から認められるということが最大の幸福になっているのかもしれない。
承認欲求っていうやつだ。
自分はこんなことを考えて生きている。
自分はこんなこともできるんだ。
だからみんな私を見てよ!
とブログやSNSで常に発信しているのだ。
(そういう自分もブログを使っているが……)
今の時代、自己表現欲求が人々が心の底で持つ、最大の欲求になってきている。
私は映画好きに集まりの帰り道に何か腑に落ちない気持ちになった。
あの時、私が紹介した映画は「17歳のカルテ」だった。
本当にすばらしい映画だ。
私はその映画の影響を受けて、ある自主映画を作った記憶を読み戻していた。
私は大学時代に、自主映画作りにハマっていた。
4年間で7本ほどの映画を作った。
撮影だけで三ヶ月以上費やした約70分くらいの超大作もあった。
浴びるように映画を見ていた。
私が通う大学の図書館には映画コーナーが充実してあって、フランス語の先生が選ぶ、
フランス映画コーナーなどが設置されてあったのだ。
そこで古今東西の映画を授業をサボっては見まくっていた。
年間350本は見ていたと思う。
TSUTAYAにも通って、映画を見まくっていた。TSUTAYAから年賀状が届くくらい見ていたのだ。
本当に浴びるように映画を見て、何かのエネルギーを発散するかのように映画を作りまくっていた。
今思うと、何者かになりたかったのだと思う。
一介の映画監督になったふりして、映画を作っていたのだ。
そんな風にして映画を作る毎日だが、映画作りを通じて、多くの人とも知り合えた。
私が所属していた映画サークルは比較的、活動が活発な方で、毎月誰かが映画を作って、サークル員が撮影に参加していた。
私も定例会などで「この映画作りたい!」と言ったら、先輩たちもなんだかんだ手伝ってくれた。
大学の構内で撮影していると、翌日の授業中に
「昨日、何の映画作っているんですか?」
と声をかけてくれる人も現れた。その人とは映画を通じて、今でも交流がある。
中学から高校まで、どこか自分の居場所がないと感じていた自分にはとてもありがたいことだった。
映画作りに熱中していると自然と人が集まるようになってきた。
どこか生きづらさを抱えて生きる自分にとって、映画を作っている時だけが、生きているという実感が持てるような気がしていた。
そんな時に、「17歳のカルテ」を高校の時以来、見直したのだ。
これを作りたいと思った。
こんな映画を作りたいと。
私は早速、境界性パーソナリティ症候群について、調べ始めた。
脚本を書くための資料集めだ。
その病について調べていけばいくほど、
「これは自分だ!」
と思った。
不安がないことが不安で、精神的に不安的な症状に苦しむ患者のことを調べると、
自分も一歩間違っていたら、そっちの方だったのかもしれないと思った。
何がエネルギーのはけ口になるようなものがないと、人間は生きていけないのだ。
私はのめり込むようにして、境界性パーソナリティを題材にした映画の脚本制作をした。
2週間ほどで、約1時間ものを映画の脚本を書き終えた。
その脚本を友達に渡したら、だいぶ評判が良かった。
「感動した」
「この役私やりたい」
と多くの人が言ってくれた。
私は鼻高々だった。
やった、これでようやく映画祭でいいところまでいける映画の脚本が書けた。
私は早速、映画の制作に入った。
撮影、音声、編集などのスタッフを集めて、スケジュールを調整して撮影に踏み切った。
主演の女の子はサークルの後輩を使うことにした。
「この役をやりたい」と言ってくれたのだ。
ロケ地は聖蹟桜ケ丘周辺にした。
「耳をすませば」の舞台で、穏やかな雰囲気が漂う空気が好きで、昔からここで映画を作りたいと思っていた。
私は撮影が始まるまでに何度も聖蹟桜ケ丘を歩き回り、
どこで何を撮ろうかと構想を膨らませていった。
この映画だけは何としても取り切りたかったのだ。
ちゃんとした映画にしたかったのだ。
撮影が始まった。
主演の女の子はいい演技をしてくれた。
カメラ越しで見ていると、私は泣けてきた。
撮影は2月の極寒の中で行われたので、からりハードだった。
鼻水がジュルジュルの状態で撮影が続行された。
雪が降っても撮影が続く。
東京に雪が降った時は大変だった。
聖蹟桜ケ丘周辺も雪山になってしまったので、前日に撮ったシーンと絵が繋がらなかったのだ。
結局、主人公の少女が寝ているうちに雪が降ったという設定に変えて、
撮影を続行した。
スケジュールをうまく調整して乗り切った。
そして、ついにラストシーンの撮影になった。
どうしてもここで撮りたい! と思う場所があったのだ。
それは聖蹟桜ケ丘を一望できる丘の上だった。
夜になると、綺麗な東京の夜景が一望できるのだ。
絶対そこで撮りたいと思ったのだ。
夜景をバックに、生きづらさに悩む少女が構成していくシーンを撮りたかったのだ。
私はのめり込むようにしてカメラを回した。
極寒の寒さの中、走り回った。
多くの人に迷惑をかけたと思う。
今思い出すと本当に申し訳ないと思う。
しかし、どうしても撮り切りたかったのだ。
結局撮影と準備に三ヶ月以上かけて約60分の映画が完成した。
3月の終わりに映画の上映会を行った。
待ちに待った映画の初日だ。
緊張した。
私にとって、とても思い出深い映画なのだ。
映画が始まる。
あれ?
みんな寝ている。
なんで寝ちゃうの……
あまりにも長編で、物語が全く進まない展開に多くの観客が寝始めていた。
だめだ……
みんな寝ないで。
頼むから寝ないで。
もはや私の心の一部になっていたその映画は、見るに堪えない駄作になっていた。
私は恥ずかしかった。
上映会に来ていたお客さんの反応をうかがっているうちに映画の上映をやめたくなった。
私は自分に酔っていただけなのだ。
自分の世界に浸っていただけなのだ。
こんな世界観なら多くの人も共感してくれるはずと思って、一人よがりの映画を作ってしまったのだ。
結局、私は生きづらさを抱えたまま、大学を卒業した。
「就活しないで、映画監督になる!」
とか言っていた私も時期が来て、周囲の波に巻き込まれるようにして、就活をした。
結局、私は何者にもなれなかったのだ。
ただ、誇大妄想を抱えて、一介の映画人のふりをしていたに過ぎないのだ。
時が経ち、24歳になった。
最初に勤めた会社はわずか数ヶ月で辞めてしまった。
1日30分しか寝れない環境で、精神がおかしくなっていたのだ。
そして、東南アジアを放浪した。
ラオスの山奥まで行った。
タイの駅前でホームレスに混じって寝たりもした。
ボロボロだった。
どこまで行けば自分の居場所を見つけられるのかわからなかった。
結局、何のために海外まで来たのかわからないまま、日本に帰国した。
そんな時に出会ったのが、とある本屋が主催するライティング・ゼミだった。
「人生を変えるライティング・ゼミ」と書かれてあるので、最初は怪しいなと思った。
しかし、通っているうちに私はライティングにのめりこんでいった。
楽しいのだ。
とにかく楽しいのだ。
ライティングを通じて、ネット上だが仲間もでき始めた。
皆、物書きやライターに興味がある人たちだ。
文学や映画に興味がある人が集まっていて、共通の話題があり話をしやすかった。
ライティングをすると、世界の見え方が変わってくる。
毎週のようにある締め切りに向けて記事を書いていると、常にネタ探しをしながら
世界を見渡すようになり、物事を多角的に見るようになる。
些細な出来事も愛おしく思えてくるのだ。
記事を書いていると、いろんな人から反応が来た。
「前回の映画についての記事、面白かったです」
など、いろんな反応をくれた。
嬉しかった。
思い起こせば自主映画を作っていた時は、そんな風に自分が作った映画について感想をいってくれる人がいなかった。
自分の世界に浸っていただけなのだ。
見る観客のことを思って映画を作っていなかったのだ。
私は会社を辞めて、上から目線を持った自分を捨てたのをきっかけに相手のことを思って文章を書けるようになったと思う。
相手へのサービスを第一に考えるようになった。
この記事を読む人は、ここでどう思うのか?
ここで何を思うのか?
と常に読者よりの視点になった。
相手のことを思ってライティングに励んでいると、自分が抱えていて生きづらさも緩和されていったのだ。
ライティングこそ、生きづらさを抱える人にとっては特効薬になるのかもしれない。
書き続けることが、今の自分にとって一番大切な気がするのだ。
そう思って、今日も私はライティングに励んでいる。