ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

人との境界をあいまいにする    

 

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「人との境界をあいまいにする」

ふと、湧いて出てきた言葉だった。

何か悟りを開くかのように、自然と湧き上がってきた。

 

仕事している時にふと、このフレーズが思いつき、ずっと考え込んでしまった。

「人との境界をあいまいにする」

 

どこか今の自分にとって大切な言葉のような気がした。

きっと、どこかの本の抜粋なのかもしれない。

そう思って、深夜に家の本棚を探り、自分が読んできた本の中でこのような言葉が書かれていないか探してみることにした。

 

しかし、見つからなかった。

もしかしたら数年前に読んだ本にこの言葉が書かれていたのかもしれない。

だけど、自分の心から自然と湧き上がってきた言葉なのかもしれない。

 

 

なんだろう。

 

どうしてもこの言葉の意味をずっと考え込んでしまった。

私はとにかく人との境界をわりと作ってしまうタイプだった。

人と話していてもすぐに壁を作ってしまう。

 

昔からそうだった。

相手と話をしていてもちょっとした仕草が気になってしまい、

ちょっと目線を外しただけで「あ、この人きっと自分に興味がないんだな」と思い込んでしまう。

一旦、そう思い込んでしまうと、自分もそういう態度を取ってしまうのだ。

 

どうしても人と話していると疲れを感じてしまう時があった。

 

飲み会のときもそうだった。

会話が展開されていても、どこでどういう話をしていいかわからなくなるのだ。

普通、飲み会は楽しい場のはずだ。

だけど、自分にとってもわりと精神的にぐさっとくる場所でもあった。

 

 

「きっと今、次の会話の内容を頭で考えているんだろうね」

会社の上司に飲み会に誘われた時だった。

飲み会が始まって1時間以上、じっと黙っている自分を見て、そんなフレーズを発してくれたのだ。

 

相手に合わせて次の内容を考える。

それが本当に出来なかった。

人に興味がない自分も正直いる。

だけど、それ以上に、相手に気を使いすぎて、ぐったりと来てしまう自分もいる。

 

飲み会の席など、楽しそうな会話が続いていくのに、自分からこんな話題が出ないことが苦痛で仕方なく、いつも相手に悪いと思い、自分をがんじがらめにさせてしまう。

 

あ、今日も駄目だった。

そんな感じで飲み会が進んでいく時に、ふと

「相手に合わせるってものすごく大切だよ。酒が飲めなくても、少しでいいからビールを飲む。そうやって少しずつ相手に合わせていくんだ」

いつも自分に気を使ってくれている自分の上司からそんなことを言われる。

 

社会に出て、一年以上経つが、どうしてもまだ自分の殻に閉じこもっている自分がいる。

たぶん、自分は人と接するのが苦手ではある。

だから、毎日同じ場所でおなじような仕事をするのは正直、向いていない部分がある。

 

土日になると、「あ、やばい」と思い、軽くパニックになってしまうことがある。

 

仕事のことをぐるぐる考えてしまい、じっとしていられない自分。

どうしても人と自分とに距離を置く時間が取りたくて、一人で映画館に駆け込む。。

 

映画館に駆け込んで、二時間の間だけでも映画の世界に良い浸る。

その時間が今の自分にとってかけがえのない時間なのかもしれない。

 

一旦、自分と周囲との距離を置く。

そんな時間がとても愛おしく、必要な場所になった。

 

だけど、そんな風じゃいけないと思っている自分もいる。

もっと、人と接しないといけない。

 

どんなに嫌がられても、人と接しいかないといけない。

そう思っている自分もいる。

 

自分は普段、営業の仕事をして、人と話す仕事をしている。

そんな中、人と話すということは本当にキャッチボールに似ているな、

とふと思った。

 

「言葉のキャッチボール」とよく言うが、そのとおりなのだ。

相手に向かって、強い球を投げると、強い球で投げ返される。

愛情のこもった優しい球を投げると、優しい球で投げ返される。

 

営業の仕事をして、いろんな人と接していくうちに、本当にそのことを痛感した。

初対面の相手はどうしても第一印象で「この人はこういう人だ」と頭で考えてしまう。人間、見かけで決めるなというが、どうしても見かけの印象が大きく左右されてしまう。

 

ぱっと見の印象で、この人はギザギザな心を持った人だなと思い、心地なく話していると、相手からもギザギザな形で言葉が帰ってくる。

 

優しいおっちゃんだなと思っていると、自分にも優しい言葉を投げかけてくる。

 

本当に鏡に向かってキャッチボールをしているような感覚になることがある。

 

人との境界をあいまいにする。

見かけや第一印象で、相手のことを決めつけず、人との関係をあいまいにする。

 

ゆるっとふわっとしたあいまいな境界で人と接するようになったら、もっと多くの人とコミュニケーションを取れるようになるのではないか。

 

そんなことを最近はよく考えるようになった。

人に対し、ガチッとした境界を作るのではなく、どんな人でも受け入れられる、

ゆるい境界線……

 

そんなゆるい境界を持つ人でありたい。そう思うようになった。

どうしても負の感情に包まれそうになったら……  

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自分でもわかっているつもりなのだけども、とにかく私はマイナス思考だ。

一つうまくいかないことが出てしまうと、ど〜と溢れ出るようにマイナスな考えが頭に浮かんでくる。

 

きっと、これは駄目だ。次も駄目だ。

あ、あ、あ……

 

そんなところが少なからずある。

人と接する時も同じだった。

とにかく昔から対人恐怖症みたいなところがあって、人前で話すのが大の苦手だ。

 

モゴモゴ喋らないで。

そう何度も注意されてしまう。

 

初対面で会った人でも、ちょっとした仕草で相手の人はこういう人だと思いこんでしまう節があり、身動きが取れなくなってしまうのだ。

仕事で会った人でも、名刺交換の場で、ちらっとよそ見していた人がいたら、

「あ、この人自分に興味がないんだな」

 

「きっと、この人はこういう人なんだな」

そう思い込んでしまい、この人はこういう人だとレッテルを張ってしまう。

 

「お前、思い込みが激しすぎる。あの人は見かけと違ってそんな人じゃないよ」

そんなことをよく上司に注意されてしまう。

 

思い込みが激しすぎる。

確かにそのとおりだった。

 

その思い込みの激しさもあって、いったん負の感情に包まれてしまったら、

深海に一人潜り込んでいくように、ずず〜と負の感情が湧き上がってきてしまうのだ。

 

あ、今日は駄目だ。気分を変えなきゃ駄目だ。

そう思うと、いつもトイレに篭り、深呼吸をしている。

 

なんで、こんなにマイナス思考なのだろう。

そんなことをよく思う。

 

「きっと、今日はうまく行かない日だ」

と思い込むと、案外いい日になり、

 

「今日はきっといい日だ」と思い込む、案外トラブルが起こって、悪い日になる。

 

そんなことを思い込んでいる部分があるのかもしれない。

 

昔から「今日は駄目だ」と思っていたら、案外いいことが起こったりする出来事がよくあったので、いつからかそういう風な思考回路が出来てしまったのだ。

 

だけど、こんなにマイナスの思考で囲まれた私の脳裏はわりと限界が来る。

ずっと、負の感情に包まれて生活していると、人と接したくてもうまく心を通わせることが出来ない自分に嫌気がついて、ある時、心の糸がプツンと切れたことがあった。

 

あ、もう駄目だ。

いったん、自分から距離を取ろうと思い、海外に逃避行の旅に出た。

インドやら東南アジアをぐるっと放浪したりした。

東南アジアは一ヶ月以上旅に出ていた。

 

今思うと、大学4年の頃から社会人になるまでの間に結構な現実逃避の旅に出ていた気がする。たぶん、就活が嫌で仕方なかったのもあるが、負の感情に包まれた自分が嫌で仕方なかったのだ。

 

全部捨ててしまえ。

そう思い、何かにすがるように旅に出ていた。

 

タイ、カンボジアベトナムラオスと東南アジアをぐるっと廻る。

たぶん、死んだ目で歩いていたのだろう。

 

自分は何をしたらいいのかわからなかったのだろう。

 

旅先のゲストハウスには、日本人のバックパッカーがたくさんいた。

ある人は、脱サラをして世界一中の旅に出ていた人がいた。

ある人は、大学生で就職をする前に旅に出ている人がいた。

 

みんな異国の環境の中、楽しそうに話をしている。

 

だけど、自分は「あ、この人結局逃げてきただけでしょ」

そう思っている自分がいた。

自分も逃げて海外に来ただけなのだが、他の人にも同じ感情を出していた。

 

そんなことを思っている自分が一番ださいと思った。

 

海外に出てきても、何も変わらなかった。

感じなかった。

 

結局、逃げてきたはずの海外でも、どうしても自分の居場所を見つけることが出来ず、疲れたように帰ってきた。

 

 

日本に帰って、転職活動などを初めて、なんとか社会人に復帰することが出来た。

きっと、世の中的には第二新卒でなおかつ新卒の会社を数ヶ月で辞めたような私の経歴をみて、雇ってくれる会社は極端に少ないと思う。

だけど、諦めずに転職をしていたら、ようやく転職先を見つけられた。

 

社会人に復帰して、数ヶ月が経った時、ある日こんな人と出会った。

 

「とにかく書いて下さい」

その方は、20代の全部を小説家になるために一日1万2千字書いていたという。

朝から晩まで小説を書くことを10年間続けていたという。

30歳ぐらいで自分には小説家になる才能がないと諦め、今は本屋の経営者をやっている人なのだが、「ま、これでもか!」というくらい熱い人である。

 

 

「とにかく書いて下さい。書けば人生が変わります」

本当にそうなのかと思った。その方がやっているライティングゼミに何度か通い、文章を書くことが面白くなってきたころもずっと不思議だった。

 

書けば人生が変わるのか?

 

その方はいつもポジティブで、ニコニコと仕事の面白さを語っている。

ポジティブな思考が人を惹きつけるのか、いつも面白い人に囲まれ、クリエイティブな仕事をしている。

 

あ、なんだか楽しそうだなと思った。

 

だけど、時折ふ〜と目が黒くなることがあった。

その一瞬が不思議だった。

なんで、あんなにいつも目をキラキラされて、人と接しているのに、瞬間的にふ〜と目の色が濁る時があるのだろうか。

テレビ取材とかでも笑顔で接しているその方だが、ある時こんなことを言っていた。

 

「今は誰にもわからないと思うのですが、もともと人前で話すのが大の苦手だったんです。人前に出ると、手が震えてきてしまって。だけど、場数でなんとかなりました。人の前で接する機会が増えてくると、少しずつ喋れるようになります」

 

人の前に立っている時、私はその方の手がたまに震えている事に気がついていた。

たぶん、心の奥底には根暗な自分がいるのだろう。

だけど、絶対に人前に根暗な部分を出さないのだ。

 

「書くときは絶対最後はポジティブに終わらせて下さい。ポジティブに終わると、自分の心もポジティブに捉えることができるようになります」

そんなことを言っていた。

 

その日から私は少しずつだけど、文書を書くようになった。

なんだかんだ文書を書くのが好きな自分がいたのだ。

 

書くということはマインドフルネスに似ているかもしれない。

書いて、書いて、書きまくる。

文章の終わりは絶対にポジティブな感情で終わるようにすると、

自分の感情をポジティブに捉えることが出来るようになるのだ。

 

なんだかんだ、自分はライティングを初めて、一年半以上経っている。

今でも、ふと負の感情に包まれてしまう時がある。

 

だけど、そんなときこそ書かなきゃなと思う。

書いて、少しでもポジティブな感情を世に出していると、

ちょっとずつだけもポジティブに世の中を見れるようになるのだと思う。

 

 

 

 

 

どうしても鎖から逃げ出すことができない、この社会    

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「あの方、どうしても会社を辞めたくて苦しんでいるみたいです」

知り合い伝いによくこんなことを聞くことがある。

 

社会人になって2、3年目ですけど会社を辞めたくて仕方がなくて、

だけど辞める勇気もなくてうつ状態な感じで……

 

 

自分は社会人一年目で早速会社を辞め、社会のレールから一度ドロップアウトしてしまった経歴がある。

そんな経歴があるせいか、たまに転職の悩みが自分のところに飛んできたりする。

 

直接お話はしたことがないが、友人伝いに聞くところによると、その方は多分、

相当切迫した状態なのだろう。

 

自分も一度経験したから痛いほどわかるのだが、自分と相性が悪い会社に入ってしまうほどストレスを感じることはない。

 

毎日月曜日の朝から、会議に出て、夜遅くまで仕事する毎日。

たぶん、自分が少しでも興味がある分野なら集中して定時まで耐えられるだろう。

だけど、世の中の半分以上がとくに興味があるわけではないが、なんとかく今の職場にたどり着いた形なのだと思う。

 

合わない上司やムダに長い会議に出席しているうちに精神がボロボロになってくる。

会社を辞めたくても、辞める勇気がない。

辞めたらお金に困ってしまう。そんなことをよく聞く。

 

自分の場合は電車に飛び降りそうになるくらい切羽詰まっていたので、

後先考えずにバサッと鎖をちぎってしまったが、たぶん普通の状態だと無理だと思う。

 

「辛かったら辞めればいいじゃん」

ブラック企業に入ってしまったら、バサッと辞めちゃえばいいじゃん」

そんなことを大学の頃は思っていた。

 

だけど、実際に社会に出て働くようになってから、そんなに物事は単純じゃないことが身にしみてわかってきた気がする。

 

 

「え? こんなに早く帰ってしまうの」

自分は今、営業の仕事をしている。

地方を飛び回り、都内を走り回っているのだが、最近身にしみて感じることがある。

どこの会社もみんな5時過ぎになると帰宅してしまうのだ。

そんなに早く帰って、何かやることがあるのか。

 

不思議なのが課長以上の上司だけでなく、新卒をはじめとした20代の多くも、

定時以降に仕事をすること、残業することに対して厳しくなってきたことだ。

(おそらく大手広告代理店のあの事件がきっかけ)

 

営業の仕事をしていて、5時以降に電話しても

「本日の勤務は終了しました」という着信が出るから驚く。

 

え? 世の中って普通5時過ぎになるとみんな帰ってしまうのか。

今現在、自分は毎日23時過ぎ仕事をするのか当たり前の環境なので、

世の中の変化に驚いてしまった。

 

というか、むしろ早く帰るのが働き方的にはいいのか。

 

だけど、新卒で入社したての人が、17時になったから「お疲れ様でした」

と勝手に帰ってしまうのも、なんだかいいのか悪いのかよくわからない。

 

働き方改革」が叫ばれるようになってから、

死に物狂いで働きまくるベンチャー企業と中小企業タイプと、

定時になったら綺麗さっぱりオフィスから人が消えていく大企業タイプの2つで、

働き方が完全に二極化されていっている気がする。

 

どちらも正解で、どちらも正しい働き方なのかもしれない。

だけど、どうも違和感があった。

 

いま日本で叫ばれている「働き方改革」。

それって本当に若い人が定時で帰れることが正解なのだろうか。

 

自分が今勤めている会社がブラック企業なのかはよくわからない。

(たぶん、世の中の基準的にはそこそこな黒?)

 

以前にいたテレビ制作の現場はだいぶ過酷だった。

だけど、どんなにブラックな会社でも、その働いている本人が苦しくなかったら、

ブラック企業とは呼べない気がするし、どんな働き方が正解なのかは本人にしかわからない。

 

だけど、以前から感じていた違和感があった。

ずっとずっと感じていた違和感。

 

実は会社から逃げ出せるのに逃げ出せないという仕組み……

それが日本の仕事に対するあり方の根本にある問題なのかもしれない。

 

相談を受けたその方も「会社を辞めたい」ことに悩んでいるのではなく、

「会社を辞めたいのに、辞めづらい」ことに悩んでいた気がするのだ。

 

 

自分は中小企業に勤めている身である。

 

正直、大手企業に勤めたことがないから現状はよくわからないのだが、

日本のほぼすべての中小企業って、一人が抜けると自然と他の人に負担が増えるような仕組みになっていると思う。

 

 

私が以前に努めていたテレビ制作の現場も、自分の前に、一人のADが疾走してしまったため、その人がやっていた仕事が自分に押し寄せるような形になってしまった。

(その結果、5日以上寝れない日々が続いて、ぶっ倒れるという事態に)

 

 

誰か一人が抜けると、その分、誰かの負担が倍増するような仕組み。

そのような労働環境があるため、心優しい人は辞めたくても、上司や部下のことを思って、辞めづらくなる。

 

 

自分の会社にも一人そんな方がいた。

精神的に病んでしまい、しばらく入院していたが、結局会社に戻ってきていた。

 

正直、病んでしまうなら、今すぐに転職すればいいと思ってしまった。

だけど、優しい人のため、会社に戻っていろいろ後輩のための指導を行ってくれている。

その優しさを見るたびに、逆に胸が苦しくなる。

 

働き方改革の正体……

 

それって、若手が仕事で過労死しないように定時に帰宅させることではなく、

ある一人の社員が抜けても、仕事に代替が効くような、あらゆる働き方が認められた

労働環境のことではないのか。

 

いくら、定時に帰える習慣を作っても、職場を辞めることが出来ない精神的な鎖を生み出す企業があるかぎり、日本人の働き方って変わることはないのだろうと思う。

 

なんだか、ずいぶん生意気でエグいことを書いてしまって申し訳ない。

 

社会に出てもまだ2年近くしか経っていない自分が言うのもなんだが、

やたらと定時に帰宅する大学の同期を見ていくうちにそんなことを感じてしまった。

 

 

 

 

 

 

全然愛情がこもってないんですけど    

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「え? 全然愛情がこもってないんですけど」

それは自分が撮った写真を会社の人に見せたときのことだった。

ずばり、自分が感じていたことを指摘されたのだ。

 

篠山紀信って知ってる? その人が宮崎美子を見つけた時の話なんだけど」

その写真家なら自分は知っていた。

もしろん宮崎美子のことも。

 

宮崎美子ミノルタのCMに選ばれた理由なんだけど、当時付き合っていた彼氏が撮った素朴で愛らしい写真が篠山紀信の目についてCMガールに選ばれたんだ。たぶん、その彼が撮った彼氏の前でしか見せない素顔が審査員の心に響いたんだろうね。何が言いたいかというと写真って人のこころを直接写しているっていうこと」

 

ふだん、カメラの話とか特にしてこなかったが、ごもっともなことを言われた。

 

私はカメラを始めてから、ちょこちょこと人を撮る機会が増えてきた。

「カメラが好きだ!」といろんなところで叫び散らしているせいか、

撮ってもらいたいと言われる機会も増えてきたのだ。

 

だけど、どうしても心の奥底では感じていることがあったのだ。

「自分は相手にきちんと向き合っているのか?」

そんなことを感じることが度々あったのだ。

 

自分が普段、写真を撮って感じていたことを、直接会社の人から言われてしまった。

 

 

「写真って人のこころを写すから、その人が相手をどう見ているのかが一枚の写真から滲み出てしまうからね」

 

愛情を持って、人と接しているのか?

自分のこころを映し出す鏡となって、一枚の写真に出てきてしまう。

 

そんなことを痛烈に感じている時に言われた一言だった。

なんかガツンと感じてしまった。

 

自分はどうも昔から人と接するのが苦手だった。

人混みに入っていると、どうしても息がつまり、ノイローゼ状態になってしまう。

飲み会がどうしても苦手で、人が喋っているときの会話の流れについていけず、いつも口を閉ざして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

飲み会の席は本来楽しい場所のはずなのに、自分にとってはどうしても耐え難い時間という部分もあった。

 

これじゃいけない。

もっと人と関わるようにならなくちゃ。

そう思った時に手にしたのがカメラだった。

 

カメラを通じたら人とコミュニケーションが取れる。

そう思い、カメラを買ったのだ。

 

だけど、どうしてもカメラのファインダー越しに相手を見ていても、

少し距離を置いてしまう自分がいた。

 

あ、やっぱり自分の性格って写真に現れるんだ。

もっと、相手のことをよく知らなきゃ。

 

そんなことを感じて始めていた。

 

人から愛されたい。

人ともっと接したい。

 

そう思い、自分の中でもやもやが広がっていた。

 

どうしたら人ともっと関われるようになるのだろう。

人の心を突くような写真が撮れるようになるのだろう。

 

「とにかく量を撮るしかないよ。もっと写真を撮ればうまくなる」

そんなことを会社の人から言われた。

 

確かに量かもしれない。

だけど、性格ってなかなか治らない。

 

自分の中でモヤモヤが広がっていたこの頃。

ふと、思い出した。

 

「人を愛するということを大切にして下さい」

 

どこで聞いたのかよく覚えていないが、ラジオでYUKIが語っていたことだった。

 


「多くの人は、自分は幸せになりたいというけれども、自分の幸せを願うよりも、相手の幸せを願ってください」

 

人は愛されたいと思ったりする生き物だけど、まずは自分が人を愛するということを学んで下さい……そうすれば自然と自分のことを愛してくれる人が現れてくるとラジオで語っていたのだ。

 

それって写真において、ものすごく重要なことなのだと思う。

眼の前の被写体になってくれている人に対し、愛情を持って接することができるのか?

 

それが否が応でも、出来上がった一枚の写真に現れてくるのだ。

 

やっぱり人のこころに響くような写真を撮る人って、相手のことを優しい目線で見つめている人だと思う。

 

写真を撮るようになるまで、そのことに気がつけなかった。

 

相手のことを好きになる。

人を愛するようになる。

 

その気持を忘れないためにも、やっぱりより多くの写真を撮るしかないのだとふと思った。

 

人を好きになる努力。

それがいちばん大切なことなのかもしれない。

枠を取っ払ってしまえば、きっと、そこには。

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「よく一年間社会人やってこれたね」

仕事の帰り道にふと、上司にこんなことを言われた。

正直、驚いてしまった。

 

あまり、自分は職場でプライベートなことは話していない。

どこか仕事と私生活に一線を置いている節がある。

 

自分が今勤めている会社はとてもフレンドリーな雰囲気が職場にあふれていて、

休日も社員同士集まって、どこか遊びに行っていたりする。

 

自分は昔から人付き合いが苦手という部分もあって、休日は会社と一旦距離を置いていたりする。

仕事以外の話は正直、会社の人と話してこなかった。

 

「いや、君を見ていると、本当に社会にうまく馴染めてない感じがしててね、

正直、そんなに仕事続かないと思っていたよ」

 

とある仕事帰りの日、上司と帰り道が一緒になった時にふとこんな話をされた。

 

「え? そうなんですか!」

自分って周囲からみるとあまり会社とか社会に溶け込んでないやつなんですか?

 

周囲から自分がどう思われているのかなんてわからないため、正直ただ困惑してしまった。

確かに、満員電車が大嫌いで、どこか組織に入るのが嫌で嫌で仕方ない自分がいるのは確かだが、会社に来るときはきちんとメリハリを付けて仕事に取り組んでいるつもりだった。

 

「いや、君って、一つの場所にじっとしてられない性格でしょ。いつも長期休みのたび、一人でふらっと海外に行っているじゃん」

 

確かに私は休みのたびに海外に行っていた。

今年のゴールデンウィークも無理やり有給を使って、周囲に

「僕は休み中は仕事はしません!」と宣言し、香港にバックパックひとつで飛んでいってしまった。

 

大学生の時も一人でインドに行ったり、東南アジアを放浪していたりしたせいか、会社の中で「休みのたびにバックパックを背負って、いつも一人でどこかに飛んでいってしまう奴」というレッテルが貼られているらしい。

 

ま、事実だから仕方ない。

 

「いや、本当に君は落ち着きがなくて、いつも一人でふらっと単独行動してしまう性格だから、きっと会社勤め続かないと思っていたよ。正直、社会人やるの結構辛いでしょ?」

なかなか、ズサっと心に突き刺さることを言われてしまった。

 

自分の中では今勤めている会社の雰囲気がわりと性に合っていて、仕事内容も割と面白いなと思っている。

だけど、もっと自由にいろんな価値観の人と出会って、いろんな仕事に触れてみたいと思っている自分がいるのも正直なところだ。

 

 まさか、会社の上司から「社会人やるの結構辛いでしょ?」

と言われるとは思わなかった。

 

自分は昔からどうも周囲にうまく馴染めなかった。

学生の時も、全員が同じ向きに座って、同じ講義を受けているのがどうしても許せなかった。

なぜ、皆が同じ方向に向かって座っているのか?

そのことが疑問で仕方なく、クラスに居る時も常に落ち着きがなかった気がする。

 

ずっと、どこかモヤモヤとしたものを抱えて過ごしてきた。

そのモヤモヤがピークに達したのが、就活のときだったと思う。

皆が同じ色のスーツを着て、同じような自己紹介を始める。

 

同じような顔立ちで、同じような内容の自己PRを語り、なんだかよくわからない理由で、企業に内定が出る人と出ない人が別れていく。

 

 

その違和感が堪えきれず、どうしても憤りを感じていた。

マジョリティに染まらなくてはならない自分。

なんだかよくわからない社会のレールから飛び出していく勇気も持てない自分が嫌で仕方なく、意味もなく海外を彷徨い、歩いたりしていた。

 

 

結局、自分は一体、何がしたいのだろうか。

 

そのことがわからないまま、大学生活も終わりに近づいていた。

たしかその時期だったと思う。

この映画を観て、妙に感動したのだ。

イントゥ・ザ・ワイルド

 

監督は盟友のショーン・ペンである。

最初に見たときは正直、途中で眠くなってしまった。

 

だけど、大学を卒業して社会人になり、いろいろあって、会社を辞めたり、

海外に失踪したりした経験もあって、改めて見直してみるといろいろ考えさせられることがあった。

 

何かの拍子で今週、久々にこの映画を見直してみた。

 

物語が後半に向かうに連れて、心にじわじわと突き刺さるものがあった。

 

あ、もしかしたら自分ってこの映画から少なからず影響を受けていたんじゃないか?

ふと、そんなことを考えてしまった。

 

何不自由なく裕福な家庭で生まれ育ち、優秀な成績で大学を卒業した主人公。

しかし、大学を卒業すると同時に、全ての私財を捨てて、放浪の旅に出る。

 

それは自分を見つめる旅かもしれないし、文明社会からの逃避だったのかもしれない。

二年近くの放浪の後、アラスカの荒野に消えていった彼は、幸せな人生を歩めたのだろうか? そんなことをふと考えてしまった。

 

大学生の頃に見たときは正直、そんなにいい映画だとは感じなかった。

しかし、改めて見直してみると、心に響く言葉だらけで、目がじわじわと来てしまう。

 

物に支配されるのは嫌だ。

全てを捨て、荒野に旅に出た彼はどんなことを思いながら、アラスカで最後の時を迎えたのだろうか。

 

「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合う時だ」

アラスカの荒野で一人、孤独に死の瞬間を迎える時、彼が書き残した言葉だ。

 

どんなことを思いながら、死の時を迎えたのだろうか。

 

自分は旅行好きということもあるが、全ての捨ててまで、二年以上放浪する勇気もなければ、力もないだろう。

だけど、心の奥底ではきっと、飛び出してみたいと思っているのかもしれない。

社会人になって、いろんなことに責任を負う立場になってきた。

昔のように、気ままに飛び出すわけも行かないのかもしれない。

 

だけど、この映画の主人公のように、「外の世界を見てみたい」という

純粋な気持ちはいつまで経っても忘れてはいけないのだと思う。

 

社会の枠にうまく染められない人がいるのかもしれない。

毎日の満員電車に心が疲弊してしまった人がいるのかもしれない。

 

そんな人達に荒野に一人彷徨い歩いた青年の物語が心に染み渡るだろう。

映画「イントゥ・ザ・ワイルド」。

 

たぶん、自分にとって一生忘れられない映画になったと思う。

きっと、今後道に迷った時にも見直す映画だ。

 

 

 

 

 

大の邦画嫌いの私でも、この日本映画だけは涙無くして観れなかった

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「久々に面白い邦画と出会った」

以前からお世話になっている映画好きの方からこんなことを言われた。

 

その方は大の映画好きで、黒澤明などの昔の巨匠の映画が好きだということもあって、どこか自分ととても映画の好みが合う方だ。

 

その方が大絶賛している邦画があった。

「邦画は基本的に胸糞悪いものばかりで見ないけど、この映画だけは違った。

久々に邦画を見て感動した」

 

映画に関してはだいぶ辛口のコメントをするその方が大絶賛している邦画があったのだ。

 

私も基本的に邦画は苦手だ。

最近は、なんだか可愛い顔した女子高生が出てきて、なんだかイケメンが登場してイチャつくような物語ばかりで、こんなんで日本映画って大丈夫なのだろうか? と正直思っていた。

 

自分も映画が大好きだが、基本的に見るのは9割以上が洋画である。

ハリウッドの映画を見て育ってきた影響もあって、邦画を見ても、どこか島国っぽくて閉鎖的な空気感が漂う感じがして、どうしても感情移入できないのだ。

作りての思いというか作家性が感じられなくて、どうしても見れないのだ。

 

 

そんな大の邦画嫌いの私だったが、同じく邦画嫌いのその方がやたらと絶賛している日本映画が気になって仕方がなかった。

 

その映画のタイトルはもちろん知っていた。

正直言ってしまうと、原作は読んでいた。

 

本屋大賞を受賞して、本屋に行けば平積みされており、気がついたら買って読んでいた。

 

本屋大賞だって。

日本人って本当に賞を取ったものに弱いよな。

そんなことを感じながら読んでいったが、本の世界に度肝抜かれてしまった。

 

それは音楽を支えるある職人さんの物語である。

ピアノの奏でる音楽を支える人たち。

 

その物語に感動してしまい、涙なくして読めなかった。

もちろん、映画化されることは知っていた。

だけど、原作があまりにも良すぎて、映画の方は見る気が起きなかった。

どうせまた、女子高生とイケメンが出てきて、イちゃつくだけの映画になってしまうのではないのか?

 

そんなことを懸念していて、トレーラーは見ていたが、どうしても見る気が起きなかった。

 

「青年の目が、明らかにアナログのものを見つめる目なんだよ。本当に素晴らしい作品なんだ」

そう絶賛するその方の声を聞いて、私はその邦画が気になって仕方がなく、週末になると見に行くことにした。

 

映画館に入ると驚いた。

ほぼ、観客性は女性ばかりだ。

男性はほぼいないんじゃないかと思った。

 

映画が始まると、オープニングからキレイな雪の景色が広がっていた。

窓についた氷の結晶。

それがどれも美しかった。

 

私は野生の直感的にこの映画すごいと思った。

映画が始まって1分も立たないうちに、一気に映画の世界に引き込まれていった。

 

そして、原作で読んだ主人公が人生の師となる人物と出会う場面に入った。

 

音楽が体育館に流れた時、一瞬森の景色がスクリーンに映り込む。

 

「あ、こういう風に映像にしたのか」

 

小説を読んでいるときは、各々が物語のイメージを脳裏に焼き付けて読んでいく。

そのイメージは本を読んでいる読者によって、異なるだろう。

だけど、映画となるとどうしても一方的なイメージしか伝わらない。

スクリーンに映し出される絵は誰が見ても同じのため、同じイメージが観客の脳裏に焼き付くことになる。

 

だけど、この映画は、小説では描けなかった部分を映像にしていく。

それは映画でしかできない表現だった。

 

音楽と森の描写。

それが映像とリンクしていて、心地よいメロディを奏でている。

 

私はあっという間に映画の世界に惹かれていった。

原作を読んでいるため、物語の展開は知っていたが、音楽と映像が奏でる世界観に良い浸ってしまった。

あまりにも美しい自然の描写、そこに暮らす人々の姿。

 

どこか日本人が忘れてはならない感情がそこには眠っている気がしたのだ。

 

そして、物語の後半になり才能に苦しむ主人公に、ある人物はこう投げかける。

 

「才能っていうのは、ものすごく好きだという気持ちなんじゃないかな。どんなことがあってもそこから離れられない執念とか、闘志とかそんなものに似ている」

 

原作でもこのセリフを読んだ時、感動してしまったのを覚えている。

才能に苦しむ主人公。必死に音楽と向き合うからこそ、自分の才能のなさを痛感して、もがき苦しんでしまう。

 

それでも主人公は、音楽の世界に戻っていき、音楽が生み出す深い森の世界に身を捧げていく。

 

その森に一度足を踏み入れてしまうと自分の力で来た道を戻っていくしかない。

だけど、主人公は音楽が奏でる深い森の世界をきちんと見つめていく。

 

2時間以上あった映画だが、あっという間だった。

時間を忘れて音楽と調律師の物語の世界に入ってしまった。

 

自分の才能に苦しんでいる人……

あるいは、自分のように人生の目標を見つけられず、もがき苦しんでいる人がいるかも知れない。

 

そんな人にとって、この映画は特別な薬になるのかもしれない。

どこか心を落ち着かせてくれる、心の拠り所になる映画になるかもしれない。

 

多くの人が原作のことを絶賛していた。

だけど、映画の方も素晴らしかった。

 

映画だからこそできる表現が、物語の中にあふれていて、時間を忘れてしまうくらい物語の世界に入り込んでしまう。

 

ピアノと調律師の物語……「羊と鋼の森」。

原作も凄かったが、映画の方も素晴らしかった。

 

何かを選ぶことにまだ慣れていない人たちに……

 

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「あ、あぶない」

 

私は自転車のブレーキを握りしめた。

 

「ふう、何でこんな場所に猫の死体があるんだ」

道のど真ん中に猫の死体が転がっていたのだ。

しかも、この通りは大通りに面していて、車の行き来も多い。

 

私は躊躇してしまった。

周囲の人は猫の存在に気がついているが、見て見ぬふりをしている。

 

猫の死骸からは赤い液体が飛び出ており、内臓が出ている。

道を走る車も、次から次へと猫の死体の手前を走っているが、遺体を避けて走っている。

 

多くの人が何か見てはならないものを見てしまったというばかりに、

見て見ぬふりをすることを決めていた。

 

私も正直、心の奥底でこう思ってしまった。

「あ、めんどくさいものを見てしまった……」

正直、そのときは早く帰らなきゃいけない用事があったのだ。

だから、猫のことにかまっている暇がない。

 

すぐに私は多くの人と同様に猫の遺体を見て見ぬふりをして、家に向かって再び自転車を漕ぎ始めていた。

 

ま、どこかの誰かが交番に届けてくれるだろう。

自分がわざわざ時間を使って、猫の遺体を回収しなくてもいいや。

 

そう思って、見て見ぬふりをして、家に向かって進んでいった

 

しばらくして、自分の中にある自尊心がくすぶり始めた。

このまま、見て見ぬふりをしていいのか。

 

誰かがきっと交番に届けてくれるだろう。

だけど、自分は見て見ぬふりをしたままでいいのか。

そんなことを急に心の奥底で感じてしまったのだ。

 

気がついたら私は元の道を戻り始めていた。

 

猫の遺体が転がっている場所には相変わらず、多くの人が行き来しているのに、皆が見て見ぬふりをしていた。

 

道の真中には内臓が飛び散り、行き交う車も猫の遺体を避けるようにして通っている。

私は近くにあった交番に駆け込むことにした。

自転車を止めて、中に入ろうとすると、ある一人の女声が交番の中に設置されている電話機を使って、電話しているところだった。

 

「道の真中に猫の遺体があるんです。来て頂けますか?」

私の少し前に交番にかけこんで、警察に連絡してくれた人がいたのだ。

 

あ、これなら大丈夫だろう。

きっと数分後には交番に警察が来て、猫の遺体を撤去してくれるはずだ。

私は自分の任務を終えた感じがして、その後の様子を見届けることなく、家に帰ることにした。

 

私達は毎日、多くの選択をしている。

家から会社に向かうことを選択していたり、

何を昼ごはんに食べるのかを選択したりする。

ましてや、自分にとって面倒になるであろうことを避ける選択も多くする。

 

毎朝、電車に乗って会社に向かうようになってから痛烈に感じたことがある。

異常なまでの人身事故の多さである。

中央線など、毎日のように人身事故で電車が停まっているのではないかと思うほど、

いつも遅れている。

 

「あ、また人身事故だ」

二時間以上電車が停まっている場合、確実に何処かの誰かの命が奪われたことになっていると思う。

駅のホームに飛び込んでくる電車。

そこに人が引き込まれるかのようにしてホームに飛び込んでいく姿を想像するとぞっとする。

その方は無意識かもしれないが、自分の命を経つということを選択してしまったのだ。

 

「人身事故かよ。仕事に遅れるじゃないか!」

口には出さないが、電車に閉じこまれた多くの乗客の顔からこんな声が聞こえてくる。

 

私はそんな状況に出くわすたびに、感情が抑えきれなくなって、俯いてしまう。

社会の不甲斐なさや無機質までに他人に無関心な人のあり方にどこか憤りを感じてしまう。

 

あまり深く考えない方がいいのだろうか。

どうしてもどこか心の奥底で、人の不幸を目にしたら、無責任な立場ではいられない自分がいる。

 

そんなとき、この本と出会った。

ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏が書いた「あなたがいる場所」である。

 

重い社会の現実を描くノンフィクション作家が書いた小説である。

正直、驚いてしまった。

この著者が書いた「深夜特急」やその他のノンフィクション本は読んだことがあった。どこか社会の根底の闇をむき出しにするノンフィクションを書いているイメージが合ったため、小説を書くイメージがなかったのだ。

 

 

私はどんな小説なのか気になってしまい、本を開いて読みふけってしまった。

そこには9つの短編小説が書かれていた。

 

まだ自分の将来を決めかねている女子高生、

ありふれた日常を生きる30代のサラリーマン、

子供を失った妻の物語、

刑務所に入った息子に手紙を書く父親などなど……

この作家がよく描いていたノンフィクションのような特別な世界に生きている人ではなく、ごく普通の世界に生きている普通の人達の物語がそこにはあった。

 

ありふれた日常のようで、少しだけ違う。

この小説の中にごく普通の主人公たちは、ある選択をする場面を描いている。

その選択は人生を大きく帰るようなたいそうなものではない。

 

だけど、「向こう側にはいかない」という選択をしている。

より簡単な方向にはいかない。人の不幸を目にしても、見て見ぬふりをする大人にだけはならない。

 

ある高校生はカラスにいじめられている鳩を見て、バスを無理やり止めて駆けつけていく。

ある中年の男性は娘を死なせた保育園にある遊具を壊しに行く。

 

どこか世の中に眠る悲しい出来事に遭遇しても、見て見ぬふりをしないという決意を選択している。

 

この本を読んでから、自分は道の真中に横たわっていた猫の死体を見て見ぬふりしなくてよかったなと思った。

一度、面倒なことを放棄してしまうと、どうしても人は見て見ぬふりをしてしまう大人になってしまうと思う。

だけど、少しでもいいから世の中の悲しみを感じる心の余裕は持っておきたい。そんなことをふと思ってしまった。

 

最後のあとがきに小説家の角田光代氏の言葉が書かれてあった。

「より簡単な方向に向かうか向かわないか。どっちにいくか。

その分岐点は、私達の人生に溢れかえるほど存在している。

その選択をし続けることが、つまり自分を生きることではないのか」

 

東京という社会は思いかけないくらい冷酷な部分がある。

他人の不幸が毎日のように目にすることがあっても、見て見ぬふりだけはしたくない。そんなことを感じた。