ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

「人よりも上に立ちたい」という、あの感情……    

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「人よりも上に立ちたい」

よく考えれば大学生の頃の私はこの感情に動かされて、空回りばかりしていたと思う。

 

「自分は他の人と何か違ったものを持っている」

「ちょっと人と違った職業に就きたい」

そんなことを思い、何かに取り憑かれたかのように映画ばかり見て、自主映画ばかり撮っていた。

 

「自分は人よりも上に立つことができるはず」

そんな無駄な自尊心に蔑まされて、就活の時もどこか他人目線でいる自分がいた気がする。

 

ちょっとクリエイティブな感覚を持っている自分ならどこかの広告代理店なら受かるはず……

 

 

そんなことを思い、アホみたいに倍率1000倍のマスコミ各社を受けて、アホみたいに落とされまくっていた。

「自分は何か特別なものを持っている」

そんな自尊心に動かされ、他人を心の奥底で侮辱している自分が嫌で仕方がなかった。

 

就活の時は30社以上落とされ、本当に精神的に気が狂っていたと思う。

「自分は結局何がしたいのか?」

新卒で入ったテレビ関係の制作会社も、5日連続で寝ずに働いた結果、電車に飛び降りそうになった。

 

「本当に自分は何がやりたいのか?」

「自分の仕事は何なのか?」

さっぱりわからなくなり、しばらく海外放浪の旅に出ていた時期もあった。

 

 

 

今思うと、何で学生の頃の自分はあれほど

「人よりも上に立ちたい」と願っていたのか不思議に思う。

 

とにかく「自分は何か人と違ったものを持っている」

「ちょっと違った感性を持っている」

と信じていたかったのだと思う。

 

そんな感情を抱きながら他人を心のそこで侮辱している自分が嫌で仕方がなかった。

 

転職活動をして、ようやくきちんと社会人として働くようになった今、

もう「特別になりたい」というあの感情も消えていったが、心の奥底ではきっとまだ持っているのかもしれない。

 

何だろう……この「人よりも上に立ちたい」という感情は。

 

そんな時、ふとこの映画と出会った。

映画のタイトルは昔から知っていた。

 

本国のアメリカでは超低予算映画にもかかわらず、スマッシュヒットを飛ばし、

出演者が次々とトップスターの仲間入りになった映画だ。

 

昔からこの映画のことは気になっていたが、ティーンエイジャー向けの恋愛映画と聞いて、どうしても見る気がしなかった。

 

どうも昔から恋愛映画というものが苦手で、邦画特有のキラキラした青春映画に見えて、どうしても手に取ってみる気がしなかった。

 

 

年末に見る映画をどうしようかと思い、TSUTAYAを歩いていると、

ふとこの映画のパッケージが見えた。

 

ま、一度くらいは見てもいいかな。

そんな軽い気持ちだったと思う。

 

やけに映画のパッケージのデザインが気になってしまい、気が付いたらレジに向かっていた。

 

どうせキラキラした青春映画だろう。

ま、暇つぶしにいいか。

 

そんな軽い気持ちで映画のストーリーも知らずに見てみることにした。

 

映画の本編が始まった瞬間、やばいなと思った。

あ、この映画やばい。

 

学生時代にアホみたいに年間350本以上も映画を見ていたせいで、最初のオープニングショットが映画全編の雰囲気を決めることは知っていた。

 

 

面白いと思う映画は、ほぼ100%……

オープニングからどこか人の心に突き刺さる何かがあるのだと思う。

 

野生の直感というか、人の脳内にイメージがこびりつくかのようなオープニングが後世まで語り継がれるような映画にはあるのだ。

 

このティーンエイジャー向けの恋愛映画にも、どこか人の心に琴線に触れる何かがあった気がする。

 

 

最初の1時間ほどは普通のラブストーリーである。

今やハリウッドを代表する若手俳優とヒロインが奏でる恋愛映画だ。

 

 

だけど、後半はただのティーンエイジャーものの恋愛映画と違って、どんな人の心にも響くセリフの数々があった。

 

 

それは60歳以上の方が見てみると違った見方ができるかもしれない。

 

また、30歳ぐらいの働き盛りのサラリーマンがみると違った解釈が生まれるかもしれない。

20代の進路に迷っていた昔の自分のような人にも、またどこか心に響く何かがあると思う。

 

 

重い病に倒れ、自分の命の灯火を懸命に燃やす18歳の男女が奏でる独特の世界観はきっと多くの人の心にも届くはずだ。

 

 

この映画では、人生で一番大切なことは何か? 

ということを問いかけている。

 

「多くの人に自分の存在を示したい」

「誰かに自分を認めてもらいたい」

 

どこか「自分は特別でいたい」と願っている人もいるかもしれない。

 

だけど、大勢の人に認められるより、ただ一人にきちんと愛され、認めてもらえることがどれほど幸せで、愛おしいことなのかをこの映画では教えてくれる。

 

 

映画「きっと、星のせいじゃない」

ただのティーンエイジャー向けの恋愛映画だと思っていたが、全くそんなことはなかった。

 

原題の「The Fault in Our Stars」とあるように、

ラストシーンで亡くなった恋人の面影を夜空に探し求めるヒロインの姿を見ていると、

「自分の人生で大切なものは一体何なのか?」と考えさせられてしまう。

 

 

 

 

何かを「売る」ということは……      

 

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「こんなに本を買ってたのか」

2017年も終わりに近づいてきて、夜中に一人で大掃除をしていた時、ふと思った。

 

あまり棚とか整理していなかったため、私の部屋の本棚はぐちゃぐちゃである。

それを一気に片付けていると自分が今年読んできた本の量に驚いたのだ。

 

「え? こんなにビジネス書読んでいたの!」

 

棚を整理していると、ビジネス書がなだれ込むようにして出てきたのだ。

全て会社に向かうまでに満員電車の中で読んできた本だった。

 

しかも、ほとんどがビジネス書である。

 

学生の頃はほとんど本など読んでこなかった。

小学生の頃から文字の読み書きが大の苦手で、本を読んでも内容が頭にほとんど入ってこなかったのだ。

 

大学受験の時も国語の偏差値は40台である。

日本史やら英語で無理やりカバーして受験競争を乗り切った感じだ。

 

そんな大の国語嫌いだった私が、2017年に死ぬほど本を読んでいたのである。

 

あれ、なんで自分ってこんなに本を読んでいたんだろう?

 

思い返せば2017年は自分の周りの環境も大きく変化していた年だった。

 

去年はずっとフリーターのプー太郎をしていた。

新卒で入った会社を数ヶ月で辞めてしまったため、行く場所もなく、ただひたすら東南アジアを放浪していたりしていた。

 

「どこに向かって歩けばいいのか?」

本当に全くわからなかった。

 

自分は社会人に向いていない。

サラリーマンなんて絶対に無理だ。

 

そう思い、何もやりたいことも見つからず、ただ家に引きこもってばかりでいた気がする。

 

さすがにこのままではダメだと思い、何10社と落とされながらも何とか今の転職先の会社に辿り着くことができた。

配属先は営業である。

 

人とのコミュニケーションが大の苦手な自分に営業なんてできるはずがない。

 

そう思っていたが、さすがにずっと家に引きこもっているのもどうかと思い、

内定をいただけた会社に入社することにした。

 

 

 

営業の仕事を始めてから、驚いた。

意外と仕事が面白いのだ。

 

自分が勤めているのはカメラを扱う会社で、業務用のカメラや映画用のカメラの代理店などをやっている。

 

自分は業務用のカメラの担当だが、初めはとにかく覚えることが多くて死にそうになった。

業務用のカメラのニーズがあるのは、主に自動車産業や溶接の現場である。

 

まさか社会人にもなって、自動車の部品を覚えることになり、溶接の手法を勉強する羽目になるとは思わなかった。

 

最初は嫌々やっていたが、日本の産業を支えている自動車メーカーの人たちと関わるようなり、そこで働いている人たちの姿を間近で見ているうちに、いつしか自分の心も変化してきた気がする。

 

この人たちが日本の自動車を作っているのか……

 

自動車のピストン一つとっても何万人という技術者の人たちが関わって部品を組み立て、毎日夜中までピストンを改良して、燃費がどうすれば良くなるのか?

と研究している人たちがいるのだ。

 

この技術者たちがいるおかげで、日本の自動車は世界一燃費がいいのだ。

 

自動車のワイパー一つ見ても、何万人という技術者たちが日夜改良を重ねている。

そういった技術者の人たちはとても頑固で、まるでリアル「陸王」みたい現場だった。

この技術者の人と対等に会話をできなければ、カメラを買ってもらえるようにはならない。

そう思い、がむしゃらに自動車の部品やら溶接の手法を勉強していった。

 

そして、ビジネス書を読み漁り、「どうしたら売れるのか?」ということを真剣に考えていった。

 

学生の頃は飲食店などでアルバイトをしていたが、

「ものを売る」ということがこんなにも難しいものだとは思わなかった。

 

 

相手のニーズにしっかりと応えなければ、「これを買います!」と言ってもらえないのだ。

 

むしり取るようにしてビジネス書を読み漁り、読むだけでなく実際の営業の現場でアウトプットをしているうちに、少しずつだけどなんとなく見えてきたものもあった。

 

 

結局、自分が相手にどれだけ価値を与えられるのか?

これが一番大切なんだな……と思うようになったのだ。

 

 

 

営業って結局のところ、「相手に認められること」である。

 

結婚も就活も、「自分の価値を相手に認められてもらうこと」

になるので、やっていることは営業の仕事と一緒である。

 

テレアポ一つとっても、相手が「この人と会っても意味がない」

と思われてしまったら、断られてしまう。

 

いかにして相手に価値を提供できるのかが大切な気がする。

 

 

自分は就活の時も海外を放浪していた時もずっと、

「誰かに認められたい」と思っていた。

 

 

「君にはクリエイティブな素質がある」

「人とちょっと違った価値観を持っている」とか、どこかのクリエイティブな広告代理店の人とかに言ってもらいたかったのだ。

 

電通やら博報堂のクリエイティブな人たちなら自分の才能に気づいてくれる。

そんな上から目線な心を持っていた。

 

人に認められたと思って、無理に人脈を作ろうとしても、誰も自分のことを見てくれることはなかった。今思えば当然である。

 

人に認められるには、自分が相手のために何ができるのか?

相手にどんな価値を与えられるのか?

 

このことを考えることが一番大切な気がするのだ。

 

究極のところ、あらゆるクリエイティブな仕事もこの利他の心が大切な気がする。

とにかく相手のためを思って、何かを書く、写真を撮るというコンテンツを作っていくことが、プロというものなのだと思う。

 

この写真を通じて、相手にどんな価値を与えられるのかが一番大切なことな気がするのだ。

 

 

自分はまだ営業の仕事を始めて日が浅いが、社会に出てから多くのことを学んでいった気がする。

むしり取るようにしてビジネス書を読み潰したことも無駄ではなかったのだと思う。

 

 

 

カメラを持つと「死」に怯えた日々を思い出す  

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こんなことを書いてもいいのか正直今も迷っている。

普段、ブログを書くときはどこの誰かが読んでいるのかもわからないため、自由に自分の気持ちを素直に書いてしまっているが、もしかしたらこの文章はどこかの誰かを傷つけることになるかもしれない。

 

身近な人が亡くなった時、人は何を思うのか。

 

私にとって、初めて訪れた身近な人の「死」は小学生の時だった。

学校から帰ってくると、母親が興ざめた表情で私に語ってきたのだ。

 

「おじいちゃんが亡くなった」

 

その時、私は何が何だかわからなかった。

体調が悪いとは聞いていたが、夏休みまで元気に過ごしていたおじいちゃんが亡くなるなんて信じられなかったのだ。

 

確かに末期の癌だとは聞いていた。

夏休みにあった時は、顔色が真っ白で体調が悪そうだったが、

孫である私には元気いっぱいの笑顔を見せてくれた。

 

思い返せば、祖父の体調の変化に初めて気がついたのは春休みの頃だった気がする。

その頃はまだ癌も発症していなく、普段通りに孫の私を可愛がってくれ、

いろんな場所へ連れて行ってくれた。

その頃から祖父はあることを訴えていた。

 

「足が痛い」

 

やたらと足が痛いと訴えていて、湿布を貼っていたのだ。

 

捻挫でもしたのかな?

私はそんなことを考えて、あまり大きな問題として捉えていなかった。

 

まさか、その足の痛みが癌の転移だったとは思わなかったのだ。

結局、夏に癌が発覚してからはもう手遅れだった。

 

気がついた時には全身に癌が転移していて、余命わずかだった。

 

命を削ってまで、癌の痛みに耐えていた祖父はベッドの上で何を思い描いていたのだろうか。

命を燃え尽くした祖父の表情はとても凛としていて、清々しい笑顔を浮かべながら眠っていた。

 

私にとってそれが初めて見た人の「死」だった。

つい最近まで普通通りに生きていた人が突然動かなくなったのだ。

 

祖父の顔に触れてみると、びっくりするくらい冷たかった。

顔だけを見ていると、「おお、来たか! 東京から遠かっただろ」とひょこっと飛び起きそうな感じがするが、もう二度と起き上がることはない。

 

葬式を済まして、火葬場から出てくる煙を眺めていると、私は何だか不思議な思いがした。

骨と灰になった祖父の姿を見ていると、自分の中にあった何かが壊れていく感触があった。

 

小学生だった私は、骨と灰と化した変わり果てた祖父の姿を見て、

「あっ、人って死ぬんだな」

と強烈に思ったことを今でも覚えている。

 

人はどうもがこうが、いつかは死ぬのだ。

それは明日かもしれない。

もしかしたら100年後かもしれない。

 

だけど、絶対いつか人は消えて無くなる。

 

そんなことを強烈に思ったのだ。

 

そこから不思議と小学生ながらも「死」というものを、どうしても身近な存在にしか思えなくなった。

 

人はいつか消えて無くなる。

そんなことを強烈に感じるようになったのだ。

 

叔父が亡くなったのも唐突だった。

ある日、眠っている時に心臓発作になり、そのまま亡くなったのだ。

42歳の若さだった。

 

普段通り会社に通い、日々の生活を過ごしていたという。

しかし、ある時突然、魂が抜け落ち方のように動かなくなった。

 

 

 

小学生の頃に立て続けに身近な人の「死」を体験した私は、何かに取り憑かれたかのように「死」について考えてしまうようになった。

 

明日死ぬのは自分かもしれない。

 

 

もともと眠りが浅かったが、寝付けない日々が長らく続いていた。

 

眠ってしまうと二度と起きることはないのかもしれない。

そんなことを強烈に感じるようになったのだ。

 

 

普段、何気なく過ごしている日々も、もう二度と見ることができないのかもしれない。

そんなことを頭の片隅にずっと思い描いていた。

 

中学や高校の頃か、地平線の彼方に沈んでいく夕日の光を眺めるために、わざわざ自転車で多摩川を爆走し、夕日を眺めに行っていた。

 

 

地平線の彼方に沈んでいく光の筋を見つめているうちに、

もうこの光は二度と見えないかもしれない。

 

哀愁深く、黄金色に澄み渡っている和泉多摩川駅から眺める景色を見ながら、

私は強烈にそんなことを感じていた。

 

いつも私の心を動くきっかけになる景色は何だったのか?

 

 

そのことを考えるとどうしても「死」というものを考えてしまう。

 

自分は明日死ぬのかもしれない。

 

日頃、怠惰な心で過ごしてしまう自分の戒めを込めて、なぜか哀愁漂う夕日を眺めていると、どうしてもそんなことを思ってしまう。

 

この美しくも、儚い光はもう見ることができないかもしれない。

そんなことを子供の頃から頭の片隅にずっと思い描いていたのだろう。

 

大人になり、カメラを手にしてからも猛烈に子供の頃に描いていたこの感情を思い出してしまう。

 

この美しくも儚い光はもう見ることができないかもしれない。

見ることが出来るうちに切り取って、形に残したい。

 

そんなことを強烈に思うのか、仕事をしていようが、会社に出社していようが、カメラのファインダー越しに世界を眺めたくなってしまう。

 

 

この景色をもう二度と見ることができないのかもしれない。

 

とにかく儚く消えていく、ありふれた日常にある時間というものを切り取りたくて仕方がない。

 

つい、最近も親戚がまた一人亡くなった。

癌が発覚して、3ヶ月も経たないうちにこの世を去ってしまった。

本当にあっという間だったという。

 

残された私にできること。

それは、ひたすら毎日を真剣に生きることだと思う。

 

普段、会社に出社して忙しい日々を過ごしていると、どうしてもそのことを忘れてしまう自分がいる。

本当に自分は毎日を大切に生きているのか。

そんな自戒の念を込めて、私はありふれた日常を大切にするためにも、ファインダー越しに見える世界を大切にしたいだと思う。

 

 

 

自分は真剣に生きているのか。

 

ありふれた日常を切り取っていく時、私の頭の片隅には、どうしても身近な人の「死」というものがちらついて見えてくる。

 

「やりたいのにやれない」という思いに苦しむ人がいたら、「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」は特別な薬になるかもしれない  

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「また、今年もスター・ウォーズか……」

もはや年末恒例の行事にもなっているスター・ウォーズの公開日が迫ってきていた。

子供の頃から映画が好きで、もちろんスター・ウォーズも一通り見ているが、正直言うと今回はあまり期待していなかった。

 

純粋なファンとして心のそこでは

「もうスター・ウォーズはいいよ」という思いと、

「え? エピソード6の続きが見れるの!」

という期待を込めて公開日を待っている自分がいる。

 

世界中を熱狂させてきた「スター・ウォーズ」シリーズ。

全作品とまでは言わないが、何シリーズか見たことのなる人も多いはず。

私も純粋なファンとして、「スター・ウォーズ」が公開されると映画館に飛び込むようにしていた。

 

だけど、エピソード8が公開される時は、正直本当に期待していなかった。

 

自分の周りを含めて、映画好きの人たちの間ではJJエイブラムスが監督した

「エピソード7」の評判があまり良くなかった上に、あのディズニーが大金を払って続編を作っても「エピソード7」の二の舞になるだけじゃないかと思っていた。

 

スターウォーズはどちらかというと、初期の監督をやっていたジョージルーカスの人生が反映されている面が多い。

 

 

「映画なんて作って何になる!」と父親にバカにされ、家を飛び出していったジョージルーカスの父と子の葛藤がスクリーン上に描かれているからこそ、心にジーンとくるのだ。

 

当時のルーカス青年は、カリフォルニアの田舎に生まれ、沈みゆく太陽を見ながら、

「自分は一生この地で終わっていくのか」と思いを馳せていたのかもしれない。

 

映画の中での砂漠の地平線上に沈んでいく夕日を眺めるルーク・スカイウォーカーとルーカス本人の心情が重なって見えて、涙が溢れてくる。

 

 

やはり、映画などをはじめとしたあらゆる芸術作品は作り手の思いや熱意がにじみ出ているものが、一番心に響くのだろうと思う。

 

 

何万人もの従業員を抱えたディズニー帝国が、大ヒット映画の続編を作っても、

ファンサービス満載のただ見ていて楽しい映画だけで終わってしまう気がしていたのだ。実際、巷の評判では「エピソード7」はそうだった。

 

公開のスター・ウォーズもディズニー特有のファンサービスで、ただ面白い映画に終わっているんだろうな。

そう思い、全く期待せずに映画館に向かうことにした。

 

大ヒット映画の「スター・ウォーズ」となると、公開一週間経ってもまだ映画館は混み合っていた。

 

目の前に広がる巨大なスクリーンを前に、これから始まる銀河系の物語に思いを馳せているうちに、映画が始まっていった。

 

有名なメインテーマが流れ、映画が始まる。

 

オープニング3分ぐらいから、妙な胸騒ぎがした。

 

なんだ、これ。

やけに絵に凝ってないか……

 

とにかく全てのシーンが美しいのだ。

 

オープニングから戦闘シーンが始まるのだが、爆発シーンやら宇宙空間を飛び交うX-ウィングの描写がとにかくかっこいい。

 

 

そして、登場人物のセリフのテンポが心地良い。

ルーカス本人が作っていたエピソード1〜6ではどちらかというとシリアスでコメディタッチな場面は少なかったが、合間合間に飛び交うジョークが挟まれていて、妙なテンポが生まれている。

 

 

あ、これやばい。

これはすごい。

 

映画を見ているうちに、どんどん私の心は物語の世界に惹き込まれていった。

 

画面全体の1カット1カットから製作者側の本気度がうかがえるのだ。

これまでのスターウォーズのビジュアルイメージを保ちつつ、新たなものに挑戦していく気合が画面から滲み出ているのだ。

 

人間、追い込まれた時に発せられる狂ったような熱量が全てのシーンに込められている。

  

脚本もとにかく新しい概念に挑戦している。

オープニングで全く無名のキャラクターを出したかと思えば、後半でその脇役が大活躍したりする。

 

映画序盤に繰り広げられる逃走劇もハラハラドキドキの連続である。

 

映画全体の染み渡る独特なテンポと絶妙なサスペンスが見ていて、

次はどうなるの? 

どんな展開になるの? と続きが気になって仕方ない。

 

 

 

そして、全てのキャラクターの物語が最後では絡み合い、ある結論に達する。

私はラスト1カットを見た瞬間、驚いてしまった。

今までにはないエンディングの迎え方だったのだ。

 

 

エピソード7と9をつなげるだけの映画では決してない、

監督の思いというか作家性が全面に現れたエンディングの迎え方だったのだ。

 

オープニングの時には気になっていたが、エンディングを見た瞬間、全てがつながった気がした。

 

この映画は全くの無名な名もなき人たちが立ち上がっていくまでの物語なのだ。

 

今までのスターウォーズのように特殊な能力を持った英雄の伝説的な物語ではなく、ごく普通の名もなき人たちが立ち上がり、希望をつなげるまでの物語なのだ。

 

 

あのラストシーンを見た瞬間、震える思いがしてしまった。

 

ディズニーの映画なのに、監督の作家性が全面に押し出されている。

 

人間追い込まれたらこれほどまでの作品を作り上げるのか! 

という狂ったような熱意がにじみ出ていた。

 

映画が終わってもしばらく立ち上がれなかった。

 

圧倒的なものを見せつけられた感じ。

 

徹底して計算され尽くした脚本と、圧倒的なビジュアルイメージに感化されすぎて、身動きが取れなくなってしまった。

 

 

正直言って、今回のスターウォーズは純粋なファンとしてなら、今までの定説を崩すような作りで、満足できない面もあるかもしれない。

 

 

それでも監督のライアン・ジョンソンをはじめとした製作者側の新しいものに挑戦する気合がトンデモなく凄かったと思う。

 

とにかく1カット1カットが凄まじい。

 

プロデューサーのキャサリンケネディーも

「全ての指揮を監督に任せる」という覚悟を持って、全責任を監督に任せていたのだろう。

 

 

通常、ハリウッドのシナリオは20人以上の脚本と共同で書いていくはずだが、

今回のスターウォーズは監督のライアン・ジョンソンが全て一人で書いている。

全責任を一人で負っているのだ。

 

 

監督はインタビューでこう答えている。

「まず飛び込むこと。もしも少し距離をとってその責任の巨大さを見たら、おそらく尻込みしてしまう。とにかく飛び込んで、没頭することだ。話はそれからだ」

 

 

 

何を始めるにしても、

「まだ、勝負の時じゃない」

「もっと練習を積んでから勝負したほうがいい」

といつも躊躇している自分がいた。

 

 

だけど、細かいことはとにかく飛び込んでから考えればいいのだ。

 

ルーカス・フィルムとのミーティングで人生を変えるような決断を迫られたライアン・ジョンソン監督の生き様と作家性がにじみ出ていた今回のスター・ウォーズに私は多くのことを学んだ気がする。

 

 

 

何かに熱中することを忘れている大人がいたら、この本は起爆剤になるのかもしれない  

 

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「何でこの人はこんなに仕事に熱中できるのか?」

社会人をやるようになって、仕事でいろんなところに営業に出ていると、

何度か異常なほど仕事に熱中している人と出会うことが度々ある。

 

正直言うと、私はもともとサラリーマンという職業が嫌で仕方がなかった。

会社員となると、特に好きでもないのに、お金のために嫌々会社のいいなりになって、働いている人がほとんどだと思っていた。

 

実際、満員電車に乗っていると明らかに辛そうな表情をしたまま会社に通勤しているサラリーマンを多く見る。

 

学生の頃はそんなサラリーマンたちの姿を見て、

絶対自分はサラリーマンなんてやりたくない。

自分の好きなことを仕事にしたい。

そう思っていた。

 

結局、私は大学を卒業したのちに、海外を放浪するなり、転職するなりして

サラリーマンという道を選ぶことにした。

 

会社員になんてなりたくなかった。

だけど、実際に営業として飛び込み営業などをしていると、妙に営業と相性が良いことに気付いている自分もいる。

 

絶対に自分は人としゃべることが苦手だし、人の話を聞き取ることなんて向いてない。そう思っていたが、実際に飛び込み営業などをやってみるとどこへでも飛び込んでいける自分がいる。

 

 

学生時代にインドなどを放浪していたせいか、案外怒鳴り散らすような面倒なお客さんと遭遇しても、

「あ、この人怒鳴っているけど、あのインド旅行中にインド人10人に取り囲まれた時の恐怖に比べたら大したことないな」

 

そう思い、乗り切れる自分がいることに驚く。

 

 

なんでも実際にやってみないとわからないもんだな。

そう思い、忙しい毎日を送っているが、どうしても心の中にぽかんと穴が空いている感覚がある。

 

何か忘れてはいけないはずの感覚。

何だろうか。

 

子供の頃はずっと心の奥底で燃え上がるようにしてあったあの感覚。

目の前の仕事の山に集中していると、どうしても自分が本来熱中していたものを忘れていってしまう。

 

 

自分の会社や営業先の人の中でも異常に自分の仕事を誇りに思い、仕事に熱中して取り組んでいる大人が私の周りには数人いる。

 

そんな人たちを見ていると私は、

「どうしてもこの人たちには勝てないな」と思ってしまう。

 

 

 

些細なことでも自分の仕事に誇りに思い、働いている人たちがいることで社会が回っていることに最近になって気が付き始めた。

 

大学の頃は、人よりも上に立ちたい。

多くの人に認めらたいと思って、広告代理店やマスコミなどのちょっとクリエイティブな世界を目指していた。

クリエイティブな人こそ、一番偉いと思っていた。

 

だけど、世の中には人知れず、些細なことでも誇りに思って、仕事には励んでいる人がいる。

 

たとえ、駅のゴミ拾いでもきちんと丁寧にゴミを掃いている掃除のおばちゃんを見ると、本当に人として素晴らしいと思ってしまう。

 

 

自分は何に熱中できるのだろう?

もちろん、仕事中は仕事に集中して取り組んでいるつもりである。

 

だけど、どうしても何か心の中にぽかんぽかんと穴が空いていく感覚がある。

何だろう、この感覚。

自分が生涯をかけて熱中できるものは何なのだろうか?

 

 

そんなことを思っている頃、この本と出会った。

本屋で見かけたとき、

「何だ、この黒光りしている本は!」と思ってしまった。

 

 

黒く光り、中心部分には「ナイキ」のマークが飾られているのだ。

 

それはナイキの創業者の自伝的なビジネス書「SHOE DOG  靴に全てを」である。

ドラマの「陸王」に興味を持っていたこともあり、私はこの本を手にとって読み始めてみることにした。

 

最初の5ページを読んだ時には、もうすでに本の物語の世界に熱狂してしまっていた。

 

何だ、この心が燃え上がる感触は。

 

そこには一人の若い起業家が「ナイキ」というブランドを世界に羽ばたかせた熱い人間ドラマが描かれているのだ。

 

数ページ読んだだけで直感的にこの本はしっかりと読まなきゃいけない本だと思った。

 

 

すぐに本を買い、毎日の通勤の時間で読むことにした。

暑さが指二本分ほどの分厚い本である。

ビジネス書の中でもだいぶページ数が多い部類に入ると思う。

 

しかし、本の分厚さなど忘れてしまうのだ。

時間を忘れてしまうくらい良いふけってしまうのだ。

 

やばい、この本は面白い。

 

あまりにも「ナイキ」のストーリーに魅了されてしまい、トイレ中でも隠れて読み始めてしまうくらい熱中してこの分厚い本を読んでしまった。

 

 

そこには、「ナイキ」というブランドが形成されていくまでのストーリーが書かれてあった。

 

 

人間ドラマの小説としても面白いし、起業家たちのビジネス書としても明らかにトップクラスの情報が詰め込まれているのだ。

 

 

なんだ、この本は。

なんでこんなにも面白いんだ。

 

 

24歳の若き起業家フィル・ナイトがいかにしてオニツカタイガー

(現アシックス)から靴を買い取り、アメリカへの輸入取引を成功に導いたのか。

そして、オニツカから独立し、いかにナイキという独自のブランドを形成していったかが事細かく書かれてある。

 

何度も何度も著者であり、ナイキの創業者であるフィル・ナイトは繰り返し、成功の秘密を書いている。

 

若い頃は百科事典の商売は失敗し、やっとの思いで雇われた会社も結局やめてしまい、ようやく天職と思えるシューズを売る仕事に出会えたという。

 

彼が百科事典の商売がうまくいかず、シューズの商売はうまくいった理由。

この言葉がずっと本全体に浸透するかのように、何度も何度もキーワードとして出てくるのだ。

 

 

シューズの商売が成功した理由、それは「信念」があったからだと。

 

フィル・ナイトは大学時代も陸上を続け、心の奥底から走ることを信じていたという。みんなが毎日数マイルを走れば、世の中はもっと良くなるはずだし、ナイキのシューズを履けばもっと走りが良くなると信じていたのだ。

 

「信念」こそは揺るがない。

そう何度も本に書かれてあるのだ。

 

この本を読んでから私は結構考えてしまった。

私は何かに「信念」を持って取り組んでいるのだろうか。

一生涯をかけてやりたいことって一体なんだ?

 

 

「天職がわからなかったら探せ」

フィル・ナイトは最後のまとめで若い人へ向けてのメッセージを発していた。

 

自分の天職など未だにわからない。

だけど、この本を読んでから少し心の中の霧が晴れたような感じがする。

 

 

今、起業をしている人が読んでみるのもいい。

また、自分のように天職を探してさまよい歩いている人が読むのもいい。

 

 

きっと、負け犬としていろんな銀行から叩かれながらも己の信念を捨てず、

ナイキを世界的企業へと成し遂げたフィル・ナイトの生き様に心が揺さぶられるだろう。

 

 

自分が心のそこから湧き上がる「信念」、それさえあれば人の心を動かすのだと。

 

人に選ばれるということ  

 

 

「どうしてこの人の周りにはいつも人が集まっているのか?」

何度かそう思ってしまう魅力的な人と出会ったことがある。

 

「どうして人が集まってくるのか?」

「どうしてこの人の近くにいると、また会いたいと思ってしまうのか?」

 

 

私は昔からマイナス思考の性格のせいか、常に人が集まってくるような人に憧れを抱いていた。

 

学生時代もいつもクラスの隅っこにいたせいか、クラスの中心にいる華やかな人にとても憧れていたのだ。

 

 

「なんでこんなにも人が集まってくるんだろう?」

 

学生時代にインタビュー記事を書くアルバイトをしていた頃もずっとそんな思いがあった。

インタビューする相手は大概が会社の経営者の人であったり、著名な方だった。

 

 

社会的にもある程度認められ、地位があるような人ほど、魅力的な人が多かった。

いつも笑顔を絶やさず、ニコニコとしていて、学生だった自分の主張もしっかりと聞いてくれる。

 

 

 

私は拙いながらもインタビューをして、相手の考えを必死に聞き取り、言葉にまとめていった。

 

 

インタビューで録音していたテープを起こしていると、いつもこう思ってしまう。

 

「なんでこの人はこんなに魅力的なんだろう?」

「なんで、また会いたいと思ってしまうのだろう?」

 

 

人に選ばれ、人から好かれる人に私は猛烈に憧れていたこともあり、

このインタビュー記事を書くアルバイトはだいぶ自分のためはなっていたのかもしれない。

 

自分も魅力的な人間でありたい。

人から好かれる人でありたい。

 

 

だけど、そんな考えもむなしく、人を小馬鹿にしている自分もいた。

 

私は就活の時には惨敗した。

 

その当時の私は、

自分には何か人と違ったクリエイティブな才能を持っている……

学生時代には自主映画も作ってきたし、マスコミでアルバイトもしてきた。

だから、電通博報堂みたいなちょっとクリエイティブな職業の人たちなら、

自分の魅力を気づいてくれる。

そう思っていた。

 

特に何かやりたいわけでもなかったのに、クリエイティブっぽい業界を探しては、受けては落とされまくっていた。

 

マスコミ用の何万字にも及ぶエントリーシートを書き、誰かに認めてもらえることに必死だったのだ。

 

何であの当時の私はあんなにも「誰かに認めてもらう」ことに必死だったのだろうか?

 

今思うと不思議だが、就活をしていた当時の自分は、人よりも上に立つ職業に就かなきゃと必死になっていた。

 

がむしゃらに就活をしては、同じ就活生を侮辱していた。

 

マスコミなどを受けていると、テレビ局などには全国を行脚している就活生が多数いる。

 

大きなスーツケースを持って、全国のテレビ局を受けまくるのだ。

民放キー局に入るため、みんな必死だ。

 

目の前の面接官にどうすれば認めれらるのだろうか?

どうしたら自己PRで周囲と差をつけられるのか?

私はそんな就活生を横から見ては、傍観者の目線を持っていたのだと思う。

 

こんなにがむしゃらになっても、倍率が1000倍だから受からないだろう……

 

自分もとことん落とされまくっていたのに、自分ならどこかの誰かが認めてくれると思って、傍観者の目線でマスコミ就活を眺めていた。

 

結局、そんなどこか他人事の目線を持っていた自分を雇ってくれる企業はなかった。

 

どうして誰も自分を認めてくれないのか。

就活をしていた頃、大量のお祈りメール(不採用通知)が飛んできた時は、そう思っていた。

 

 

誰か自分を認めてよ。

自分の中で承認欲求が膨れ上がり、私は身動きが取れなくなっていた。

 

 

月日が経ち、就活の恨みも消えてくると、

あの当時の苦しみは一体何だったのか? とふと思うことがある。

 

あの頃はとにかく私は人に認められることに必死だった。

 

人に認められることって一体何なのだろうか?

人からまた会いたいと思われるような魅力的な人って一体何なのだろうか?

 

 

そんなことを思っている時、この本と出会った。

NHKの朝ドラで話題になった「暮らしの手帖」の元編集長である松浦弥太郎さんが書いたエッセイ「センス入門」である。

 

 

本屋さんでこの本を見かけた時、ふと帯に書かれた言葉に目がいってしまった。

 

「仕事も人生も、ある程度先へ行くには「センス」が必要だ。

 

 

 

確かになと思った。

 

写真も文章も、または会社経営でも、

ある程度数をこなしていくと、どうしても本人の「センス」というものが出てくる。この「センス」というものが一番の差になってくるのだと思う。。

 

もはや、才能というか「センス」を磨こうとしてもなかなかできるものではない。

 

生まれつき写真が上手い人がいる一方、会社経営が得意な人がいる。

 

 

昔から周囲に認められる人は、人が常に集まってくる「センス」というものが体に染みついているのかもしれない。

 

私はふと、この帯が気になって読みふけってしまった。

 

 

読んでいるうちに心がじんわりときた。

 

ずっとずっと自分が悩んでいた「人に認められること」について

書かれていたのだ。

 

人から選ばれることのコツ……

 

それは人を認めることです。

 

 

大概人から選ばれない人は、人を認めていないケースが多いという。

自分はこう思うから、この考えは正しい。

相手と自分の考え方は違うと雁字搦めになり、人の考えを聞かないのだ。

 

 

つまり、人から選ばれたいと思っている人ほど、人に選ばれないという。

 

私はハッとしてしまった。

 

確かにその通りだと思った。

 

 

私は人から選ばれたいと思い、自分の邪魔なプライドに雁字搦めになり、私は身動きが取れなくなっていたのだ。

 

人と会う時も相手の悪い面ばかりを見て、この人とは気が合わないと思い、すぐに関係を自分の方から絶っていた。

 

 

 

人から認められ、周囲から愛される人ほど、相手の良い面を見つめている。

相手の良い面を見つめて、相手を認めているのだ。

 

 

就活をしてから2年近く経ち、あの頃の苦しみを思い出すたびに、

当時の自分は何事もわかっていなかったなと思う。

 

ちょっとずつ、社会に出てはいろんな挫折を味わっていくうちに、心の奥底にあった「何者かになりたい」という気持ちも消えていった。

だけど、この「何者かになりたい」という感情が消えたおかげで、自分にとって大切なものが少しずつだけども見えてきた気がする。

 

 

人に好かれたかったら、人を認めること。

就活をしていた当時の自分には到底わからなかったことだ。

 

これからはどんな人に会う時もなるべく相手のいい面を見つめていきたいと思っている。

 

 

人間関係に悩んでいた私が、ポートレート写真を通じて見えてきた世界

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「人間関係のストライクゾーンが狭すぎる」

大学時代から仲良くしていた友人からこんなことを言われたことがある。

 

私はただ呆然としながら、友人の話を聞いていた。

 

「周囲の人の可能性を捨てないほうがいいよ。あまり気が合わないなと思うような人でもきちんと話をすれば、きっと自分と共感するようなところが一つや二つ出てくる」

 

その友人はどうも人脈の作り方を本能的に心得ているらしく、いつも周囲には人が集まってきていた。

彼の周りにいるといつもわくわくする上、笑いが絶えないのだ。

 

「どんな人間関係でもいい具合に壁を作らない方がいい」

そんなことを面と向かって飲み会の時に言われた。

 

 

私は彼の言い分がごもっともすぎて何も言い返せなかったのを覚えている。

確かに……その通りだ。

私は昔からハイパーネガティブな性格のためか、人と話しているとぐったりと疲れてしまうことがある。

 

ちょっとした目線の動きを気にして

「あ! この人言葉ではこう言っているけど、本心ではこう思っているな」

「目線を今外したから、この人自分にあまり興味ないな」

 

特に考えなくてもいいことを頭の中でぐるぐる考えてしまう性格からか、

飲み会の席ではいつもぐったりとしてしまっていた。

 

人がいっぱい集まり、話をしている飲み会がどうも苦手なのだ。

飲み会は楽しい場のはずなのに、昔から終わった後には異常な後悔と焦燥感に見舞われる。

「あの時、こんな話題を振られたのに、何も答えられなかった」

 

人とコミュニケーションを取るのが、昔から大の苦手なため、

どうしても飲み会というものに苦手意識があり、あまり参加をする方ではなかった。

 

 

いっそ、自分の殻に閉じこもってしまえ。

そう思い、家にこもっていた時期もあった。

 

ちょっと話をしただけで、目線の動きを見ただけで、この人はきっとこう言う人なんだと決めつける癖があり、身動きが取れなくなってしまったのだ。

 

今思うと、自分のプライドが高すぎるため、他人を侮辱してなんとか自分を保っていたのだと思う。

 

高すぎるプライドと自尊心が邪魔をし、私の心はズタズタになっていた。

大学時代の友人で、いつも周囲に笑いが絶えない彼は、とにかく人間が好きだったのだと思う。

 

人が好きでたまらなく、どんな人でもコミュニケーションが取れるのだ。

 

そんな彼を羨ましく思うと同時に、大の人間嫌いだった私にはどんな人ともコミュニケーションを取るのは無理なんだと諦める気持ちもあった。

 

 

どうしたら人を好きになれるのだろう。

どうしたら人とうまくコミュニケーションを取れるようになるのだろう。

 

 

そう悩んでいる時、ふとある人からこんなことを言われた。

「カメラを始めたらコミュ力を鍛えられますよ。とにかくモテますよ」

 

え? そうなの。カメラってコミュ力を鍛えられるの。

私は不思議だった。

カメラ=コミュニケーション能力がどうも結びつかなかったのだ。

 

 

プロのカメラマンであるその人はこう言っていた。

「モデルさんを目の前にして、いい表情を引き出そうと思ったら、一番必要な能力はコミュ力です。毎日、モデルさんのいい表情を引き出そうと悪戦苦闘していると自然とコミュニケーション能力がつきますよ」

 

 

私は驚いてしまった。

昔から大の映画好きで、カメラには昔から興味があった。

カメラは好きだったが、モデルさんを撮影するようなことはあまり触れる機会がなかった。

 

 

社会に出て、いろんな挫折を味わっていく中で、気がついたら写真を始めたくて、始めたくて仕方がなくなってしまった。

「カメラを始めれば世の中の景色が変わってくる」

そんな言葉を信じて、約8ヶ月かけてお金を貯めて、念願の一眼カメラを買った。

 

カメラを始めてから、カメラなしの生活ができなくなってしまった。

毎日通勤のために駅に向かっていると、朝日が差し込むこぼれ日があまりにも美しく、シャッターを切らずにはいられなくなった。

 

世の中にはこんなに光が溢れているのか。

 

ありふれた日常がとても愛おしく思えてくるのだ。

カメラを持ち始めて、数ヶ月が経った頃、周囲に「カメラが好きだ、好きだ」と叫んでいたおかげて、土日の時にモデルさんを撮る簡単なアルバイトをするようになった。

 

大の人間嫌いだった私が、モデルさんを撮るようになるとは自分でも驚きである。

 

とにかくカメラが好きで、写真が好きで、撮りまくっていると気がついたら自分の周りにはカメラ好きの人が集まってきた。

 

どうしたらいい表情を引き出せるのか?

どうすれば人の心に響く写真が撮れるのか?

 

そんなことを思い、悪戦苦闘しながら写真を撮っているとある時、こんなことに気がついた。

 

「これって自分が相手をどう見ているのかによって、出来上がる写真も違ってくるんじゃないか?」

 

初対面であった人に「この人は優しそうだな」と思ったら、気がついたら優しそうな写真になっているのだ。

 

 

印象が「ちょっと暗そうな人だな」と思ったら、気がついたら写真も暗い印象のものになるのだ。

 

自分が相手をどう見ているのかが出来上がった写真にも影響されてくる。

よく考えれば、自分が今までに出会ったプロのフォトグラファーさんは皆、とにかく心が純粋で綺麗な人が多かった。

 

きっと、初めて会うような人でも、人の悪い部分ではなく、良い部分を見つめようとして、良い部分だけを切り取るのだ。

 

とにかくポジティブな部分を切り取って、写真という形にしていくのだ。

 

 

所詮、人とのコミュニケーションって自分が相手をどう見るかの問題なのだと思う。

 

相手を「きっと陰で悪口を言う人だ」とマイナスの面を見れば、その相手はそう見えてしまうだけなのだ。

 

「きっとこの人はこんな素晴らしい一面を持っている」

とポジティブな部分を見つけようとする人は、素晴らしい表情を写真に切り取っていくし、世の中も社会もプラスの部分を切り取っていくのだ。

 

写真を始めてからそのことにようやく気がつけた。

 

私は今まで人と話していても悪い部分を気にしてしまい、うまく人とコミュニケーションを取ることができなかった。

 

だけど、やっぱり人を惹きつけるような人は、一生懸命人の良い部分を見つけようとするのだ。

 

どんな人でも良い部分を持っていることを知っているのだ。

 

 

満員電車に乗っていて、目の前には疲れた表情のサラリーマンが座っていても、

最近は「このサラリーマン、辛そうに仕事しているな」と愚痴るのではなく、

「家族のために毎晩遅くまで仕事しているんだな」と良い面を見つけるようになってきた。

 

 

世の中も切り取り方次第で、どうにでも変わるのかもしれない。

どんな人でも物事をどう見るかによって、見方も生き方も変わってくるのだ。

 

 

社会はつまらないと思っている人にとって、社会はそういうものでしかないのだと思う。

たとえ汚い掃除の仕事でも、「人のためになる仕事だ」と思っている人にとって、その仕事はやりがいのある立派な仕事になるのだ。

 

 

悪戦苦闘しながらもポートレート写真を撮っているうちに、私は多くのことを学んでいたのかもしれない。