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年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

社会の歯車になった果てにあるもの……「三度目の殺人 」 

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 「え? こんな機械的に裁かれていくの」

私は初めて裁判というものを見て、妙な居心地の悪さを感じていた。

 

大学時代に私は一度、裁判を傍聴したことがある。

特に傍聴席に行った理由などなかった。

一度は裁判を見てみたいという好奇心があったのかもしれない。

 

裁判と言ったら海外ドラマのようにスリリングな展開があって、ハラハラドキドキするんじゃないか?

 

そんな淡い期待を抱きながら、東京の都心にある地方裁判所に向かったのを覚えている。

 

重いゲートを通り過ぎると、警備の人に荷物をチェックされた。

さすがに裁判の傍聴でも、荷物検査には厳しいようだ。

一回のロビーで本日の裁判のスケジュールを確認していると、後ろから次々とおじさんたちがスケジュール帳を開き、自分のノートにメモを取っていく。

 

こんなに傍聴マニアな人って多いんだな……

 

平日の昼間でも傍聴席に来る人は案外多かった。

 

目の前で人が裁かれるということに妙なスリリングがあるのか、寄ってたかって裁判の傍聴に群がっているのだ。

人気の裁判となると早朝から整理券が配られる。

 

私が裁判所に着いたのは11時過ぎだったため、人気の裁判は案の定売り切れていた。

 

私は初めての傍聴だったため、ひとまず目に入った法廷に足を踏み入れることにしてみた。

生まれて初めて見る法廷は、とても澄み切っていて神聖な雰囲気が漂う場所だった。

 

 

私が席に座ると、横に明らか傍聴慣れしてるおじさんたちが座っていく。

 

「起立」

裁判官が法廷に入ってくると、補佐官が声をあげた。

 

今まで噂話をしていたおじさんたちも静まり返った。

 

 

「裁判官、弁護側がただいま遅刻しているようでして」

 

え? 弁護士が遅刻?

私は驚いてしまった。

弁護士が遅刻なんてするのか? と思ったのだ。

 

いくつか裁判を傍聴している中で薄々感じたことなのだが、裁判官と検察官は国の公務員に当たるので、とても時間厳守で働いている印象だった。

その一方、弁護士は営利目的で動いている。

国に仕える身分ではないので、何かというか自営業者みたいな印象の人が多かった。

 

私が裁判の傍聴席に座っていると、何度も時間に遅れてくる弁護士を見かけた。

遅れてくると言っても2分ほどではあるが。

 

 

「次の裁判があるので、これで失礼します」

 

分刻みで裁判のスケジュールが埋まっているため、弁護士の人たちも大忙しのようだった。

 

裁判自体も判決を言い渡すだけで、5分くらいで終わってしまうものもあった。

そのわずか5分の時間でも、法廷の仕組み上、一人の裁判官と検察、弁護人が一人一人いなければならないのだろう。

 

 

「こんな機械的に人って裁かれていくんだな」

私は目の前で初めて見る法廷というものに驚いてしまった。

本当に次から次へと人が裁かれていくのだ。

そうしなければ、スケジュール的に何時までたっても裁判が終わらないのだろう。

 

私は初めて傍聴席に座ってみたが、人の不幸を目の前で見て、なんだか居心地の悪さを感じてしまった。

傍聴にハマる人がいるのはわかる。

日常では味わえないドラマチックな展開の話が聞けるからだ。

不倫訴訟、刑事事件、耳を覆いたくなるような殺人事件の裁判が毎日何十件と展開されているのだ。

 

平日の昼間なのに、何百人という人が傍聴席に集まっていた。

 

私はというと他人の不幸を目の前で見て、とても辛くなってきてしまったせいか、数時間くらいで退出してしまった。

 

大学時代に一度行ったきり、それ以来、傍聴には行っていない。

 

「あんなに分単位でスケジュールが埋まっているなんて……弁護士も検察官も大変なんだろうな……」

生まれて初めて見る裁判というものはそんな印象だった。

 

それから数年が経ち、私は大学を卒業して社会人となった。

社会に出てまだ数年も経っていないが、学生の頃のように親に甘えているわけにはいかない。

 

社会に出て自分のお金を稼ぐようになっているうちに、こうも世の中、自分が食っていくだけのお金を稼ぐということが大変だとは思わなかった。

 

会社に雇われている身だが、それでも自分の給料を稼ぐというだけでもとても大変だ。

こんなことを世の中のお父さん方はやっているのか……

今まで育ててくれた親のありがたみが嫌という程わかった。

わかると同時にどうしても違和感を拭えない自分がいたのだ。

 

毎日のように満員電車のドアから吐き出され、会社に向かっている中、周りを見回してみると、自分と同じ方向に、自分と同じような服装を着て、自分と同じような顔の人が、駅を歩いているのだ。

 

没個性……

 

 

きっと自分も何も感じない方がいいのかもしれない。

 

だけど、毎日満員電車から吐き出されてくる人を見ていると、こんなにも世の中機械的に分単位で動いていって、何事もなかったかのように人身事故が片付けられていくことにどうしても違和感を忘れられなかった。

 

テキパキとスケジュール通りに動いて、分単位で電車がホームにやってくる。

機械的に動いていく世の中にとても居心地の悪さを感じてしまう自分がいた。

 

そんな時だった。

是枝監督の最新作「三度目の殺人」を見たのは。

 

是枝監督の作品は昔から知っていた。

文句なしの日本一の映画監督だと思う。

「そして、父になる」もみたし、「誰も知らない」も傑作だ。

 

こんなに日常の些細な部分まで丁寧に描けるなんてすごい……

ずっと憧れの映像作家だった。

 

そんな是枝監督の最新作の「三度目の殺人」のトレーラーを見た瞬間、これはやばいなと思った。

普段は家族の日常などを丁寧に描く作風だが、最新作は法廷ミステリーだという。

このトレーラーを見た瞬間、これは絶対に傑作だと正直思った。

学生時代に350本以上映画を見てきたので、ある程度いい映画と、ダメな映画の区別がつくようになっているとは自分では思っている。

 

死ぬほど映画を見ては、映画を撮りまくっていたので、ある種の直感でこのトレーラーはやばい。絶対名作だと思った。

 

私は早速映画館に駆け込んで「三度目の殺人」を見てみることにした。

映画館は案の定、福山雅治目当ての女性客が多かった。

さすが福山雅治だな……と思っているうちに映画が始まった。

 

 

見ていて、私は驚きを隠せなかった。

なんだ、この法廷劇は。

なんだ、この面会シーンは。

 

私は最初の5分のうちに「三度目の殺人」で描かれている世界観に夢中になってしまった。

 

なんだこれ。

初めて見る法廷劇だ……

 

 

何回も続く面会のシーンに私は夢中になってスクリーンに食い入った。

 

なぜだか胸がチクチクと痛んでしまうのだ。

なんでこんなに胸が苦しんだろう。

なんでこんなに胸が重たいんだろう。

 

 

その映画の中で描かれていたのは、誰もが心のそこでは感じている口には出せない感情なのかもしれない。

 

罪を犯したものと、弁護する側のものが面会を続けていくうちに、両者ともに何一つ変わらない普通の人間であることに気がついていく。

 

罪を犯すものと、犯さないものの間には大きなガラスがあるはずなのに、物語が進むにつれて、そのガラスの板が崩れていくのだ。

 

 

 

 

映画館の中では誰一人、席を立つ者もいなかった。

ポップコーンを食べる音もしなかった。

皆、スクリーンで繰り広げられる役所広司の怪演と福山雅治の演技に、

そして、広瀬すずの凍てつくような表情に夢中になっていたのだ。

 

こんな映画が……

 

映画が終わった後、私はしばらく放心状態だった。

結局、結論が出ないまま映画は終わってしまうのだが、自分の中ではなんとか結論は出したいと思ったのだ。

 

結局、犯人は罪を犯したのか?

犯さなかったのか?

 

 

普段はあまり映画のパンフレットを買わない方なのだが、「三度目の殺人」のパンフレットは欲しいと思い、買うことにした。

 

結局、この映画の結論は一体なんなのか?

何が言いたかったのか?

 

 

帰りの電車の中でもじっと呆然としながら、パンフレットを開いていった。

そこには福山雅治がコメントした言葉が書かれていた。

 

 

「わからないことをわかろうとする心はあるのか? 真実がわからないからといって、見て見ぬふりをするのか? という社会への問いかけなのかもしれません」

 

 

私はこのコメントのことをとても考えてしまった。

 

「わからないことをわかろうとする心はあるのか?」

 

毎日、忙しい時間を過ごしていると、どうしても見えてきたものでも、見て見ぬ振りをした方が好都合なことが多い。

 

路上で貧しい人がホームレスの人がいても、醜いものを見るような目線で、見ない振りをした方が楽である。

 

毎日、機械的に動いていく社会の歯車の一員になって、余計なことを見ず、考えない方が楽である。

 

だけど、そんなに機械的に動いている社会の中で何か大切なものを見過ごしていることもあるのかもしれない。

 

 

 

この映画は裁判を舞台にした法廷劇だが、それ以上に世の中に対する思いが強烈に描かれているのだと思う。

 

確かに見て見ぬ振りをする方が楽だろう。

だけど、もう少し余裕を持って見なければいけないことも世の中にはあるのではないのか。

 

私は人身事故が起きた駅構内でも、スマホをいじって復旧を待つだけの大人にはなりたくなかった。

社会に隅にうずくまっている人も、見てみる振りをして、通り過ぎたくなかった。

 

きっと、もっと見なければいけないことがこの世の中にはあるのだろうと思う。

 

 

この映画を見終わった後、数時間考えさせられてしまった。 

自分にとって、世の中に対する価値観が変わるくらいの印象深い映画だった。

 

 

 

三度目の殺人」   監督 是枝裕和

 

 

 

 

社会に出ると「感性」というものを消さないと生きていけないと思っていた。

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「感性が鋭すぎるんじゃない?」

昔、友人にこんなことを言われたことがあった。

 

飲み会に行っても、ぐったりとしている自分を心配してかそんな言葉を投げかけてくれたのだ。

 

私は昔から飲み会というものが極端に苦手だった。

会話のペースについていけず、楽しい飲み会のはずなのにぐったりとしてしまう。

目の前の人と話していても、微妙な視線の違いに気が入ってしまい、

「この人はこう話しているが、裏ではこう考えているんじゃないか?」

など、裏の裏まで考えてしまう癖があり、話をしているだけで無駄に精神的に疲労を感じることが度々あった。

 

だから、昔から人と話をするということが極端に苦手だった気がする。

人と話すのが嫌いなのではない。

些細な言葉のトーンの違いにも目がいってしまい、異常に疲れてしまうのだ。

 

大学時代もどうしても飲み会というものだけは好きにはなれなかった。

誘われても、なんとか言い訳をつけて断っていたのだと思う。

 

そんな私に大学時代の友人はこう投げかけてくれたのだ。

「君は感性が豊かすぎる」

 

ちょっとしたことにも目がいってしまい、普通に生活しているだけでも疲れてしまうのだ。そのためか、どんどん私は人との距離を置くようになっていった。

 

知り合いと話をしているよりも一人で家にこもって映画を見ていた方が気が楽だった。

大学時代はずっと家に引きこもって映画を見まくっていた。

 

映画を見すぎてTSUTAYAから年賀状が届いてしまうくらい映画を見まくっていた。

映画が好きだったということもあるが、何よりも人とのコミュニケーションが苦手で自分の中の殻に閉じこもったのだ。

 

人と話をしているよりも自分の中の世界に入っていた方が楽だ。

そう思っていた。

 

社会人になって、毎日満員電車に揺れられて会社に向かうも、どうしても通勤中に気分が悪くなることが度々あった。

満員電車に乗っていても、常に人の目を気にしてしまうのだ。

「この人は今、こういうことを考えているのだろうか?」

「この女性はきっと、昨日の晩、こんなことがあったのだろうか?」

 

人の顔を見ているとなんとなくその人の個性というか、考え方が見えてくる。

その人の性格が顔の表面に現れてくるのだろう。

 

そんな風に常に些細なことまでに目がいってしまう性格からか、会社の昼休みになる頃にはいつもぐったりとしてしまう。

 

いろいろ考え事をしすぎて、頭が疲れてしてしまうのだ。

あ……このままではまずい。

そう思った時は、トイレに駆け込んで、深呼吸をしている。

 

世の中ではこう言った症状をパニック障害とかいうらしい。

 

自分も何度か経験があるが、本当にちょっと体調がすぐれないと思った時は、すぐにトイレに駆け込んで深呼吸をする。

 

なんでこうも世の中は生きづらいのか……

極度に人の動作や目の動きに注意がいってしまい、人と話をしているだけで疲れてしまう性格を直すため、最近はなるべく感受性というものをシャットアウトするようにしていた。

 

社会人となると毎日やるべきことがいっぱいあり、いちいち感受性というものに敏感になっている時間がない。

 

テキパキと言われたことをやり、言われた通りに書類を作らないと時間内に仕事が終わらないのだ。

 

結構、長いあいだフリーター生活をしていたが、なんとか今の会社に入社することができた。

大学を卒業して1年分、人よりも遅れを取ってしまったので、人一倍頑張っていかなければいけないと思う。

仕事は割と好きな方だ。

 

だけど、どうしても何か心のそこでしっくりとこないものがある気がする。

 

 

 

いちいち、人との会話に敏感に反応してしまい、ぐったりと疲れていては仕事にならない。

そのため私はなるたけ感性のスイッチを切ろうと、大好きだった映画鑑賞もなるたけ抑え、小説もあまり読まなくなった。

電車に乗っていても、あまり人の顔や表情を気にしなくなっていった。

いちいちいろんなことに敏感になって反応していては、仕事に集中できない。

そう思って、無理やり感性の扉をシャットアウトしていたのだ。

 

だけど、どうしても何か心の奥底で不安を感じていた。

このままでいいのだろうか?

そんな漠然とした不安を感じていたのだ。

 

不安を感じつつも、あっという間に夏休みになった。

上司や同僚の人はみんな海外旅行などに出かけて行っていた。

私はというと約8ヶ月かけて20万近くするカメラを買ったため、極度の金欠状態であり、どこにも旅に出かけることができなかった。

ま、大好きなカメラで近場を撮りまくれるならいいや。

そんなことを思って夏休みを過ごそうと思っていたが、どうしても行ってみたいと思っていた場所が一箇所だけあった。

 

そこは「山田かまち美術館」である。

 

山田かまちという青年を知っているだろうか?

わずか17歳でこの世を去った青年だ。

亡くなった後に家に残されていた大量の詩や絵が評価され、美術の教科書にも載っている。

 

私は中学の時に彼が書いた「青い自画像」と呼ばれる絵を美術の教科書で見かけ、衝撃を受けたことを覚えていた。

 

思春期特有の感性が絵の中ににじみ出ていたのだ。

 

 

なんだこの人は……

 

そこから私は山田かまちが残した大量の詩を貪るように読んでいった。

強烈にまでに鋭い感性に私は完全に魅了されていった。

 

なんでこんな才能ある人が17歳でこの世を去ってしまったのだろうか?

ギターの練習中、感電死したと言われているが、どうしてもしっくりとこなかったのだ。

 

いつか彼の美術館を訪れてみたい。

そう思っていたが、なんせ彼の故郷は群馬であり、そう簡単に行ける距離ではなかった。

 

いつか行ってみたいと思っていたが、いつしか結構な年月が経っていた。

 

せっかくの夏休みだし、群馬まで行ってみるか。

そう思い立ち、私は愛くるしいまでに愛用しているカメラを持って、群馬にある山田かまち美術館を訪れることにした。

 

東京の新宿から片道2時間の旅である。

遠い……

群馬……遠い。

そう思いながら、新宿から普通列車に乗って片道2時間以上かけてようやく群馬の高崎駅にたどり着いた。

 

 

駅から歩いて30分ほどのところに山田かまち美術館があった。

死後、30年以上経っているにもかかわらず、美術館の中は人で埋め尽くされていた。

中学生から60代の老人まで幅広い層が、彼の美術館を訪れていた。

 

17歳でこの世を去った青年の感性と才能に、多くの人が魅了されていた。

 

私は館内を歩いていくうちに、彼の鋭いまでにすざまじい感性に完全に良い浸ってしまった。

そこには異常なまでの量の絵と詩が展示されてあった。

 

この量の絵と詩をわずか17年の人生で書き上げていたなんて……

 

そこに展示されてある詩と絵の量が異常なのだ。

異常なまでにむき出しにされていた彼の感性が絵の中で爆発していたのだ。

 

私は何時間もかけて彼の書いた絵を見ていくうちに、心のそこではこう思っていた。

 

「きっと、これだけ感受性がむき出しになっていたら、生きていくのも辛かったんじゃないか?」

 

 

彼が書きあげていた絵と詩の量が異常なのだ。

感受性が異常なまでに鋭すぎるのだ。

17歳が書いた絵とはとてもじゃないが思えないのだ。

 

 

普通に生活していても自分の中にある感受性を抑えきれず、ペンを迸るかのように握っていたのが、目に見えるようにわかるのだ。

 

とにかく量が異常だ。

こんなに感性が鋭いなんて……

 

私は彼が書いたとある一節の詩に目がいった。

その詩を見た瞬間、自分の中にあったモヤモヤの正体が書かれてあった気がしたのだ。

 

そこにはこう書かれてあった。

 

 

「感じなくちゃならない。やらなくちゃならない。美しがらなくちゃならない」

 

社会に出たら、感性というものを捨てなければいけないと思っていた。

何かを見て、感動したり、悲しみを抱いたりする感受性は仕事をする上で支障が出てくる。

だから、どんどん捨てなければいけない。

そう思っていた。

 

だけど、人は何かを見て、悲しんだり、苦しんだり、嬉しがったりと感性をむき出しにして、感じなければいけないのかもしれない。

 

子供の頃にはみんな感性をむき出しにして、泣いたり、笑ったりしていた。

だけど、どうしても大人になってくるにつれてそう言った感情は消えていってしまう。

 

何かを見て悲しんだり、苦しんだりする感性があるからこそ、人は苦しんでいる人を見ても、見て見ぬ振りができなくなるのだ。

 

忙しい毎日を送る中、社会の隅っこでもがき苦しんでいる人を見ても何も感じなくなっている自分がいる。

人身事故が起こっても、

「何だよ! 打ち合わせに遅れるじゃないか」と不満を言う人もいる。

その場で人が亡くなっていることよりも、打ち合わせに遅れることを気にしてしまうのだ。

 

社会に出てみると、いちいち、人の悲しみを見ている暇もなくなってくる。

 

だけど、それでも人は感受性をむき出しにして、感じなければいけないのかもしれない。

感じることができるからこそ、人の苦しみや痛みに気付けるのだ。

 

山田かまち美術館を出た時には、私はいつしか目に涙を浮かべていた。

「何かを感じなければならない」

 

たとえ、世の中に暗い部分や汚いことはきっといくらでも転がっているのだろう。

それでも、この社会の中で生きていかなければならないのだ。

17歳の鋭いまでに突き刺さる感性に私は多くのことを学んだような気がするのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アイドルに全く興味がなかった私が、欅坂46の「不協和音」だけは何度も聞いてしまう理由

 

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「会社員は我慢することが仕事だ」

とある社会人の先輩にこんなことを言われたことがある。

 

私はその時、確かに……と思った。

ストレスが溜まっても我慢するしかないよな……

 

私は一度、フリーターというものを経験して、社会に出た。

 

今、普通の会社に入ってサラリーマンをやっているが、一度フリーターというものを経験したおかげで、会社に雇われの身となるのがどれだけありがたいことか痛感できる。

 

とにかく年金や税金などの手続きが楽なのだ。

すべて会社の事務の人がやってくれるのだ。

フリーターをやっていた時など、一年に一度、確定申告を受けなければならないので、役所に何時間も待たされ、意味のわからない書類を大量に書く羽目になっていた。

 

それが、サラリーマンとして雇われの身となると、そんな手続きがなくなのだ。

税金の申告なども勝手に給料から引き落とされるので、いちいち役所に行かなくて済むのだ。

 

今の時代、フリーランスノマドワーカーとして生きていく人が多くいる。

しかし、手続きのことや社会的な負担を考えると、やはり普通の一般企業に入ってサラリーマンをやっている方が楽なのは確かだ。

 

事業に失敗しようが、雇われの身である以上は自分自身の全責任になることはない。

社会的な面で、ある程度は会社が守ってくれる。

 

 

一度、フリーターというプー太郎を経験したおかげで、会社から一ヶ月に給料が出ることのありがたさが嫌という程感じる。

何の仕事もできてないんですけど、もらっていいのですか?

と正直、感じてしまう。

 

 

雇われの身として、会社にありがたみをとても感じるが、その一方で、心の中にモヤモヤしたものをずっと抱えていた。

 

私は出社までのルートに渋谷駅があるので、よく山手線や井の頭線の連絡通路を通るのだが、そこに毎朝押し寄せるかのようにして、同じ格好をしたサラリーマンたちを見るたびに、いつもなんだかモヤモヤした気持ちを感じてしまう。

  

同じ格好、同じような顔、没個性の表情のまま、スーツを着たサラリーマンたちは人混みを嗅ぎ分けるようにして、満員電車の中に吸い込まれるかのように、乗車していき、ホームに吐き出されていく。

 

私は昔から人混みの中が極度に苦手なため、いつも満員電車に乗っている時は、本を読んで、人が視界に映るのを無理やり遮断して、駅に着くのを我慢している。

 

そうしなければ、耐えられないのだ。

 

みんな同じ方向を向いて、同じような格好で、同じようなビルに入っていく姿を見ていると、なんだか気分が滅入ってくる。

 

自分が生きているのか死んでるのかわからなくなる感覚。

毎朝、通勤ラッシュの時間に、人混みに紛れて渋谷駅を歩いていると、自分が生きている実感が持てなくなってくる。

 

 

「みんな会社に不満があっても耐えているんだよ。だから、金曜日になると飲み屋で愚痴を言うんだ」

 

集団で働くとなるとどうしても人間関係の問題がネックになってくると思う。

会社に苦手な人が一人ぐらいいるのが当然だと思う。

 

私が今、働いている会社は特に嫌な先輩などもいなく、自分にとってはとても働きやすい環境だ。

 

だけど、どうしてもモヤモヤが膨れ上がっていく気がする。

多分、3年や長い年月働いていくと忘れていくであろう、この違和感。

だけど、この違和感が忘れてしまうくらい、会社という組織に馴染むのもなんだか違う気がする。

 

 

このモヤモヤを忘れたくて、私は最近やたらとカメラを持って走り回っているのかもしれない。

 

毎朝、押し寄せるかのようにしてホームを歩くサラリーマンたちを見ていると、どうしてもシャッターを押したくなる。

今、目の前にある光景を切り取りたくなるのだ。

 

なんで自分はこんな光景を切り取りたくなるのだろう。

 

 

カメラはもともと好きだった。

映画が大好きで、映画用のカメラを扱う会社に入社するほど、カメラが好きなのだ。

 

だけど、自分がいったい何でカメラに魅了され、写真を撮っているのかがわからなかった。

 

なんで自分はカメラを手に持ってしまうのだろう。

社会人をやって、会社には特に不満はないはず。

だけど、どうしても忘れちゃいけない感覚がある気がしてならなかった。

 

なんだろう、この違和感。

 

そんな時、このPVを見かけた。

私は昔からアイドルにはあまり興味を持てなかった。

 

なんかどうも苦手だった。

明るすぎるというか、純粋すぎるというか。

 

ももクロやらAKBのことはもちろん知っていたが、あまり興味を持つことができなかった。

知り合いの中には、ももクロの大ファンの人が多くいた。

そんな人たちはみんなアイドルのことを喋り出すと止まらなくので、私は全く話についていけず、いつもぽかんとしていた。

 

アイドルにハマるってなんだ? と正直思って、アイドルというやらにあまり関心が持てなかったのだ。

 

だけど、このPVを初めて見たとき、全身に衝撃が走った。

確か新曲のCMの一部をどっかで見たのだと思う。

 

PVのサビの部分を聴いた瞬間、衝撃が走った。

 

 

なんだこのダンス!!!

とにかく激しすぎる。

 

アイドルがやる踊りじゃないだろ! 

と思うくらい、激しい。

独特な世界観を醸し出している。

 

え? 今のアイドルってこんなにレベル高いのか!

 

私が衝撃を受けたPVは欅坂の「不協和音」である。

多分、初めてこのPVを見た人の多くが度肝抜かれたと思う。

 

youtu.be

 

なんじゃこれ!!!!

激しい! 速い!

 

15歳やそこらの少女たちが全力で踊り狂い、大人たちを圧巻しているのだ。

全身から「狂」が滲み出ている。

 

 

今のアイドルってこんなにレベル高いの……と思ってしまった。

私はこの独創的な世界に魅了され、YOUTUBEで動画を漁っていると、この「不協和音」の振り付けを手がけたダンサーの人の動画を見かけた。

 

あ! この人が振り付けを考えてたんだ。

私はこの振り付けを作ったダンサーの人を知っていた。

昔、情熱大陸で見たことがあったのだ。

ニューヨークの舞台で活躍し、あのマドンナにも才能を認められた天才ダンサーTAKAHIROさん。

 

18歳でダンスを始め、独学でダンスを一から学んでいったという。

社会人を一通り経験したのちに、24歳でニューヨークへ単独で飛び込み、ダンサーの世界に入っていった人物だ。

 

情熱大陸で見たとき、多分自分は16歳ぐらいだったと思うが、とても感動したのを覚えていた。

 

この人があの独創的な振り付けを考えていたのか……

 

TAKAHIROさんが欅坂のPVの振り付けをすべて担当しているという。

この世界的なダンサーはいたるところで欅坂の子たちのことについて、いろんな思いを熱く語っていた。

「あの子たちは本物のアーティストです!」

 

歌詞の世界観を表現するために、みっちり話し合いを行い、欅坂のメンバーと一緒にあの独特な振り付けを作り上げていっているという。

まるで感性のぶつけ合いのように話し合いをしているらしい。

 

若い感性と自分の感性がぶつかり合って、新しいものが生まれていく。

多分、この瞬間がたまらなく楽しのだろう。

私は、生き生きと欅坂のことを語るTAKAHIROさんのインタビューを聞いていくうちに、そんなことを感じてしまった。

 

「テーマにしているのは「集団の中にある個」です。周りが群れをなしてルールを作っていても、それには乗っかりたくない少女たちの悲鳴を踊りで表現しています。彼女たちの才能に感化されて、自分はこれまで以上にダンスに夢中ですよ」

 

欅坂のことを語るTAKAHIROさん目はとてもキラキラしていた。

この人たちがあのPVを作っているのか……

 

日本のトップクリエイターが本気を出して、アイドルのPVを作っているのである。

そりゃ、話題にもなるわと思ってしまった。

 

TAKAHIROさんは欅坂の10代そこいらのメンバーについて、誰一人子供扱いしていない。

一人のアーティストとして扱っている。

欅坂のことを語る時の目はとても生き生きとしていて、なおかつ真剣な眼差しだ。

 

 

 

「本気の人たちが目の前にいる。私はそんな人たちに賭けていきたい」

 

 

24歳の時、ニューヨークに単独で飛び込み、世界で認められたダンサーのTAKAHIROさんは熱くこうを語っていた。

 

なんで私はこのPVに魅了されたのか?

この言葉を聞いて、なんとなくわかった気がする。

 

TAKAHIROさんをはじめ、世界を魅了するクリエイターが、本気の少女たちに向かって、本気で振り付けをつけているのだ。

 

とにかくメンバーが異常なほど、本気なのだ。

 

本気で何かを作り上げようとしている人たちは、たとえ15歳でも全身から異常な熱気を漂わせている気がする。

私はこの異常な「狂」にまで到達したあの独特な世界観がたまらなく好きなのだと思う。

 

全身から異常なまでの「狂」を漂わせているあの踊り。

15歳やそこらの年齢でも「覚悟」の度合いが違うのだ。

 

 

私がカメラに見せられるようになった理由はそこにあったのかもしれない。

何かに異常なまでに打ち込む人の姿をカメラで捉えたいという思いが腹の中にある気がするのだ。

劇団のオーディションの撮影をした時も、受かるかわからないオーディションに挑む役者の人たちの目は、みんな真剣そのものだった。

 

何かに全力で打ち込んでいる人の目は、異常に輝いている。

 

 

 

たとえ、年収1000万円を超えていても、毎日疲れた顔で会社に出社している社会人もいる。

だけど、トイレの掃除でも、どんな些細な仕事でも、真剣に与えられた仕事に取り組んでいる人がこの世にはたくさんいる。

多分、私は毎朝、通勤ラッシュの渋谷駅でそんな人の姿を見たいのだ。

どんなに後ろめたい仕事でも、家族のため、会社のため、自分の夢のために、「覚悟」を持って目の前のことに取り組んでいる人たちの姿を見たいのだ。

 

 

私はそんな人たちの姿を写真で撮りたいのだと思う。

なんだか15歳やそこらの女の子から私はたくさん感化されてしまったみたいだ。

 

あの異常なまでに激しい踊りの中にある「狂」が人の心を動かしているのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「潜在能力を引き出せ!」

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「潜在能力を引き出せ!」

この写真と出会ったのは、去年の8月だった。

ポカリスエットのCMのキャッチコピー……「潜在能力を引き出せ!」

青空の下でひたすらに無我夢中になって踊り狂う高校生たちの姿を追ったCMをご存知の方も多いかもしれない。

 

ただひたすらに踊り狂う10代の高校生たちの姿は真剣そのもの。

渋谷の東急東横線に向かう地下通路一面に、この写真が貼ってあり、一度目にして、脳裏にこびりついて離れなかった。

 

 

なんだこの写真は……

どこか未来を見つめるその真剣な眼差しに私はドキッとしてしまった。

なんだこれ!

こんな写真を撮った人がいるのか……

 

電車の中に乗っていても、ポカリスエットのキャッチコピーと高校生たちの姿を追った写真がいたるところに飾られてあった。

 

なんだろう……なんでこの写真に自分はこんなに惹かれるのか?

写真に惹かれたのは初めての経験だった。

学生時代にアホみたいに自主映画を撮っていた経験から、カメラや写真には興味は持っていたが、とりわけ写真に夢中になることはあまりなかった。

 

これまで写真を見て、心が惹かれた瞬間なんてなかった。

しかし、このポカリスエットの写真だけは違った。

電車の中で高校生たちの真剣な眼差しが映し出された写真を見たとき、私はおもわず涙がこぼれそうになっていたのだ。

 

そのとき、私はプー太郎のフリーターだった。

大好きだった映画に関わることをしたいと思い、テレビ番組制作の世界に入ったものの、あまりにも過酷な環境で精神的におかしくなり、会社自体をやめてしまい、ただ闇雲に世の中を彷徨い歩いていた。

 

当時は、本当に何をやってもダメだった。

仕事をしても数ヶ月を辞め、精神的に気が狂っていたせいか、仕事自体が怖くなってしまったのだ。

アルバイトですら怖くなり、応募すらできなかった。

 

どこに向かって歩けばいいんだ……

 

完全に自信をなくしてしまい、アルバイトですら怖くなった私は、本当に死ぬ寸前まで追い込まれていた気がする。

本当に気が狂っていたと思う。

なんとか一ヶ月以上かけて気持ちを整理して、転職活動を始めるもなかなかうまくいかなかった。

日本では一度社会のレールから外れてしまった人間にはとても厳しいのだ。

 

そんな時にいつものように電車に乗って、ハローワークに相談に向かっている矢先、

この写真がふと目に入ったのだ。

 

なんだろう、この感じ。

なんで、この写真にこんなにも心が動かされるのか……

 

 

たぶん、写真に興味を持ったのはこの体験がきっかけの一つだったのかもしれない。

たった一枚の写真を見ただけで、こんなにも感情が動かされるのは初めてだったのだ。

 

こんな写真をいつか撮りたい。

そう思い、転職活動を続け、なんとか内定を頂ける会社を見つけることができた。

 

アルバイトも少しずつ始めていき、ちょっとずつ社会復帰をすることができた。

その中でもずっとずっと心の片隅にはこの写真の存在があった。

 

「潜在能力を引き出せ!」

 

 

こんな写真が撮りたい一心で、アルバイトを続け、内定先の会社で働くようになり、

8ヶ月以上コツコツとお金を貯め、ようやく念願の一眼カメラを変えた。

 

ソニーのα7ⅱという機種でレンズやら付属品も含め、約20万円かかった。

 

 

カメラを手にするようになってから、いろんなプロカメラマンや写真が好きな人たちと出会った。

自分の勝手な解釈かもしれないが、カメラが好きだという人はどこか子供っぽい人が多い気がする。

自分の身の回りのことにとても好奇心旺盛でいるので、カメラを手に取ると写真が撮りたくなってたまらなくなるのだ。

 

どこか子供の頃に芽生えていた好奇心旺盛な心を忘れずに大人になった人が多い気がするのだ。

そんなちょっぴり子供っぽいカメラ好きの人たちと話すのはたまらなく楽しい。

 

カメラを手にしていると身の回りの景色が本当に綺麗に思える。

 

たとえ曇りの日でも、雨の日でも、通勤電車に乗って毎日見ている街の光景も、

毎日違って見え、どの景色もとても愛おしく思えるのだ。

 

こんなに世界は彩りで溢れているのか。

カメラを手にするようになってから私の物事を見る目はどこか変わっていった気がする。

そんな時、ふとこんな誘いがあった。

 

 

「劇団のオーディションの風景を撮ってくれませんか?」

 

 

 

オーディション風景の写真を撮ってもらい、その写真の写り具合も審査の基準にしたいというのだ。

 

なんだか面白そうだな。

 

そう思って私は早速、オーディションの撮影をすべくカメラを持って、会場となっている池袋に向かうことにした。

 

池袋に向かう電車の中でふと、思った。

 

 

「あ……望遠レンズ持っていない!!!」

 

やっとの事で、お金を貯めてカメラを手にしたばかりの私には、レンズを買う予算などなかったのだ。

ソニーの純正レンズとなると安くて10万円相当が当たり前である。

 

 

私が持っているのは20ミリ〜75ミリの標準レンズぐらいだった。

 

オーディションの撮影となると、どう考えても距離を離したところで撮影になるよな。

 

役者の人に近づいて撮影なんて出来ないよな……

 

やばい、望遠レンズ……必要じゃん。

 

山手線に乗っている時にそのことに気がついた私は早速、途中下車して、中古のレンズを多く扱っている中野のカメラ屋さんに直行することにした。

 

中古のレンズなら……なんとか買えるかもしれない。

 

店に入り、ソニーのレンズコーナーを見て、驚愕した。

中古でも5万やら10万するのである。

 

 

望遠レンズってこんなに高いの……

 

財布の中を見てみるとみごとに五千円しか入っていない。

 

やばい、どうもがいても買えない。

カードで買うしかないのか。

 

いや、それでもこの金欠状態で、低収入のサラリーマンをやっている私には、今すぐに10万もするレンズを買う予算などあるわけがない。

 

どうしよう……

本当に困った。

 

 

すると思い出した。

オールドレンズがあるではないか!

 

ソニーのα7ⅱというカメラがセンサーサイズが大きく、フィルム時代に使われていた中古のオールドレンズとの相性が抜群にいいということを聞いたことがあった。

 

中古品でしかもフィルム時代のレンズとなると、一気に値段は安くなる。

私は急いで、オールドレンズが飾られている売り場に駆け込んで行った。

 

 

売り場の店員さんに事情を説明すると

「ならば、m42のレンズがいいと思いますよ」

 

 

m42ってなんだ? と思ったが、ひとまず店員さんの助言に任せて、レンズを試着させてもらうことにした。

m42という20年近く前に使われていた望遠レンズが奥から出てきた。

 

こんなに古いレンズで使えるのか?

 

正直、私は半信半疑だったが、マウントアダプターを付けて、望遠レンズを装着した。

 

すると、驚いた。

くっきりと見えるのだ。

 

 

しかも値段を見て、驚いた。

千円である。

 

千円でこの解像度!

 

 

速攻で購入を決定し、急いで会場となっている池袋に向かう。

 

なんとかこれで会場でも撮影できるぞ。

 

きっと、オーディションに来る人たちは本気で臨んでくる。

そんな本気の目をした人たちに「レンズが合わなくて、うまく撮れませんでした」

では話にはならない。

 

本気で挑んで来る人たちに、本気で写真を撮らなきゃ。

プロでもなんでもないカメラを始めて二ヶ月ほどの私だったが、その気持ちだけは大切にしようと思ったのだった。

会場に着くと、オーディションの順番を待っている参加者で溢れかえっていた。

 

しかも会場を見ると、参加者がいるスペースとカメラマン用のスペースがかなり離れている。

 

あぁ……望遠レンズ買ってよかった。

 

そう思っていると、早速オーディションの本番が始まった。

参加者の人たちが自己アピールをしていく。

 

それに合わせてカメラマン達が参加者たちの姿を写真に捉えていく。

どちらも本気である。

オーディションに参加する人たちは10代から幅広い層の方々が集まっていた。

地方の方から上京し、本気で役者を目指していると語る19歳の子もいた。

 

そんな彼等の本気度がこもった演技を間近で見て、私は軽くパニックである。

 

 

マニュアルフォーカスで撮影する望遠レンズが超難しいのだ。

 

普段なら、標準レンズを使っているので、カメラのオートフォーカスで機械任せにピントを合わせていたが、オールドレンズを使うとなると、オート機能は使えない。

 

すべて手動で操作することになるのだ。

 

それに私が一目惚れして買ったレンズは200ミリの望遠レンズだ。

200ミリとなると10メートルほど離れた場所でも顔アップが映るくらいの画角だ。

それだけ離れた場所で、しかも手動でピントを合わせるとなると、もはや職人技だ。

 

しかも役者さんたちは皆本気なので、演技の時間になると動き回る。

動いている役者さんたちにピントを合わせるとなると、もう大変だ。

 

やばい、ピントが追えない!

だけど、ここはできる限りのことをやるしかない。

カメラマン用の撮影スペースも限られていたため、ポジションを変えられるスペースはほとんどなかった。

 

それでもピントを合わせるべく、繊細に注意しながらファインダー越しに参加者たちを見つめていった。

目にピントを合わせるべく、悪戦苦闘するうちにふと、私が衝撃を受けたあの写真を思い出していた。

 

 

あ! 

これ……今から私が撮ろうとしているのは、あのポカリスエットの写真だ。

 

「潜在能力を引き出せ!」

 

アルバイトもろくにできず、世の中をただ呆然と歩き回っていた時に出会った写真。

あの写真に一目惚れして、私はカメラを買ったのだ。

あんな写真をいつか撮れるようになりたいと痛烈に感じたのだ。

 

あの時に感じた感情を、ファインダー越しに役者さんたちを見つめているうちに思い出していた。

 

本気で夢を追いかけている人の目は、いつも綺麗だ。

デジタルが主流のなか、手動でしかピントを合わせられない望遠レンズを使って、役者さんたちの目にピントを合わせている時に、ふとそんなことを感じた。

 

どの人も目が本気なのだ。

輝いているのだ。

 

もちろん、オーディションなので結果が全てだと思う。

受かる人もいれば、落ちる人もいる。

 

だけど、演技をしている役者さんたちの目はみんな輝いていた。

その瞬間だけ、目がキラキラしていたのだ。

 

私は今、25歳だ。

25歳ともなると、ある程度世の中の仕組みもわかり、自分が将来なれる選択肢も限られてきていると感じる。

さすがに今更サッカー選手になりたいと言っても小学生の頃から代表選手ぐらいになっていないと無理だ。

 

 

だけど、その本人が本気でなりたいと思ったら、意外と目の前に壁などないのかもしれない。

自分が心から大切にしたいと思っているものに無我夢中で取り組んでいる人たちを見て、ふとそんなことを思った。

 

私は結局、一度自分の夢を諦めてしまった人間だ。

映画が撮りたいと言って、そう言った業界に飛び込んだものの、結局諦めてしまった。

社会の歯車の一部になって生きて行くことを選んだ人間だ。

 

だけど、やっぱり夢を追いかけている人たちに猛烈に憧れる。

夢を追いかけている人たちの目はいつ見ても綺麗なのだ。

きっと、自分が思い描いている未来を見つめているのかもしれない。

 

 

夢を追いかけても叶えられる人もいれば、叶えられない人もいる。

オーディションの結果も受かる人もいれば、落ちる人もいる。

 

だけど、無我夢中に自分の好きなものを追いかけている人たちは素敵だと思う。

自分もそんな人でありたい。

 

オーディションに挑む人たちを見ているうちに、ふとそんなことを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カメラを扱う人こそ、「小さく賭けろ!」を読んだ方がいい理由

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「いい写真撮れるようになりましたか?」

私の写真の先生とも呼べる人から、ある日こんなことを聞かれた。

 

7月の真ん中に、長年欲しくて欲しくてたまらなかったsonyの一眼カメラを買った私は、最近カメラに夢中だ。

 

カメラを買うのに、約8か月もかかってしまった。

約20万円の出費である。

 

社会人1年目の私にとっては、結構覚悟がいる決断だった。

それでもどうしてもカメラが欲しい。

フリーター時代からコツコツとお金を貯め、ようやく最近、一眼カメラを手にしたのだった。

 

カメラを手にしてから、いろんなプロのカメラマンと出会い、社会人をしながら休日に写真を楽しんでいる人とも出会った。

 

自分が働く会社の中でも、プロ級に写真が上手い人がたくさんいた。

私が今、勤めているのは映画用のカメラを扱うメーカーである。

普段は営業としてハイスピードカメラを売るべく走り回っている。

やはり、カメラを扱うメーカーなので、妙に写真好きの人がたくさん集まっていた。

 

Instagramの世界で一万人以上フォロワーがいる、ネットの世界では結構有名なストリートフォトグラファーもいた。

 

毎日、常に浮き沈みの激しい性格の私にとって、カメラと出会えたことは幸運だったのかもしれない。

カメラを手に取るようになって、毎日、何気なく見ていた風景が色鮮やかに見えるようになったのだ。

 

いつも死んだ目で満員電車に乗っていたが、渋谷の駅一つ見ても、ファインダー越しに見たら、新しい風景が広がっていた。

シャッタースピードを変えて、世界を見渡してみると、違った風景が広がっていた。

 

こんなにも世界は光で溢れているのか……

 

カメラを手にしてから私の世界を見る目は大きく変わった。

 

毎日、通勤するまでに写真を撮って、家でレタッチなどの作業をして、休日になるとプロのカメラマンが集まっている撮影会などにお邪魔するようになった。

 

写真を撮りまくる毎日を送る中、写真の先生とも呼べる人にこう相談することにした。

「いい撮影ポジションを見つけられても、何回か試し撮りをしてしまう。何ショットか撮ってから、いい写真を選んでいく感じで、一発で決めてになる写真を撮れないんです……」

 

こんなことを相談したのだ。

すると先生は、

「何枚か試行錯誤はしていいんです。失敗することでいい写真が生まれてくるんですよ」

 

 

私はこの言葉を深く考えてしまった。

プロのカメラマンはある程度いい被写体を見つけたら、ズバッと決めてになる写真を一発で撮っていると思っていたが、何枚か試行錯誤してからいい写真を一枚選んでいるようなのだ。

 

もちろん全てのカメラマンがそうだというわけではないと思う。

しかし、写真を撮りながら、いい写真を選んでいる感じが自分にはした。

 

なるほど、何度でも失敗してもいいのか……

そんなことを考えていた時、ふとこの本と出会った。

 

「小さく賭けろ!」である。

ずっと前からこの本は気になっていた。

世界を変えた人と組織の成功の秘密……と書かれたサブタイトルに目が行き、本屋に立ち寄るたびに気になって仕方がなかったのだ。

 

グーグル、ピクサー、アマゾン、スターバックスなど、世界を変えていった組織が実践してきたことがこの本の中には書かれているというのだ。

 

一体どんな内容なのだろうか……

気になって仕方がなかったので、私は本屋でその本を買い、通勤電車の中で読んでいくことにしたのだった。

 

読み始めると止まらなくなった。

なんだこの面白い本は!!!

なんで今までこの本と出会わなかったのか!

 

私は基本、本を読んでいるうちに、重要だなと思ったページは折り線をつけるようにしているのだが、この本を読んでいる時は、すべてのページに折り線を入れる必要が出てくるくらい、重要なことがすべてのページに書かれてあったのだ。

 

そうか!

成功する企業はこんなことを考えて、実践してきたのか……

 

そして、何よりもこのビジネス書が面白いのは、ビジネスの世界に通じる話でなく、クリエイティブの世界でも通じる話が盛りだくさんに入っているのだ。

 

最初の「はじめに」のページに書かれているのは、有名なコメディアンの話である。

アメリカで何十年もコメディアンとして活躍し続けている彼が実践しているある方法。

 

それは、ピクサーでもアマゾンでも経営者が実践している方法と一緒なのである。

クリエイターとして、または経営者として成功する人が実際にやってきた方法がこの本に網羅されているのだ。

 

 

そして、プロとアマチュアの決定的な差を生み出す「即興」についてもこの本の中には書かれてあった。

 

マチュアのカメラマンやうまくいかない経営者は、いいアイデアが生まれてからでしか、行動に移せない。

しかし、常に最前線で活躍するクリエイターや敏腕の経営者ほど、その場その場で、「即興的」に問題を解決していく能力が身についているという。

 

私はこの本を読むまで、世界を変えていったアマゾンやグーグルなどの会社は、

経営者が素晴らしいアイデアを思いつき、それを実践していったのだと思っていた。

 

しかし、違うのだ。

走りながら、試行錯誤を繰り返し、小さな失敗を重ねていきながら大きくなってきたのだ。

 

この本の中には何度も何度も繰り返しこう書かれている。

 

「みんな小さく賭けて、素早い失敗、素早い学習を繰り返してきた!」

 

ビジネスの世界でも、クリエイティブな世界でもこの「小さく賭ける」ということは重要なのかもしれない。

カメラもいいなと思ったポジションでも、何度も失敗し、試行錯誤を繰り返し、自分の中に描いた絵を見つけていく。

失敗を繰り返すことで、徐々にいい写真を撮れるまでのスピードが速くなっていく。

そんな気がするのだ。

 

私はこの本を読んでいる時、もちろんビジネス書として、またクリエイティブな本として、多くのことを吸収できたと思う。

 

どの分野で活躍している人も皆同じことを言っているのかもしれない。

何事も「小さく賭けろ!」と。

 

 

 

 

 

 

紹介したい本

「小さく賭けろ!」 ピーター・シムズ著 日経BP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

残業が80時間を超えていた私が見つけた「週4時間」だけ働くということ

 

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「また人身事故か……」

途方に暮れているサラリーマンを目の前にして、私自身もどうしようかと困惑を隠せなかった。

今、このタイミングで人身事故が起きたら困る。

なんで朝に会議があるタイミングで人身事故が……

不謹慎だとはわかっているが、どうしても「なんでこのタイミングなの」と思ってしまった。

 

 

目の前に座る外国人は驚いているようだった。

スーツケースを抱えているので、ついさっき成田空港とかにたどり着いたのであろう。

日本に着いた途端、人身事故に巻き込まれたのである。

日本の第一印象としては最悪だ。

 

「ね、日本人って本当に奴隷のように働かされているの?」

どうやら同席している通訳さんにこんなことを聞いているようだった。

「毎日、残業させられて死んだ目で働いているのかしら。貴重な時間を、仕事だけに使うなんてもったいない」

 

日本についたばかりの欧米人に、いきなり質問攻めされ、ガイドをしている人はとても困っているようだった。

 

私はそんな、日本人の働き方に困惑を隠せない外国人のグループを見ていて、とても考えさせられてしまった。

 

確かに欧米の人から見たら、日本人の働き方は異常だよな……

 

欧米では一般的に定時退社が当たり前だ。

9時出社で定時の6時には退社し、家族と夕食のひと時を過ごすのが一般的だ。

 

夜の10時過ぎまで会社に残り、残業をするのが当たり前な日本人の働き方は、確かに欧米の人たちから見たら異常だろう。

 

「なんで日本人はそんなに働くんだ。鬱になって飛び降りるくらいなら、働かなきゃいいだろう」

そんなことを目の前にいる外国人はガミガミと通訳さんに話していた。

 

確かにその通りかもしれない。

だけど、日本人は働いてしまうのだ。

 

私はもともとテレビ関係のADをやっていたので、明け方も4時まで仕事をするのが当たり前な環境にいた。

(さすがに体を壊し、すぐに辞めてしまったが)

 

次に働いている会社でも、なんだかADをやっていた名残があるせいか、上司に「早く帰れ」と言われても、ずるずると終電近くまで残ってしまう。

 

新卒で入った会社がハイパーブラックだったせいもあって、残業が多くても家できちんと寝れる今の職場は、自分にとってはとてもホワイトに思えてしまうのだ。

だけど、私の同期たちはどうやら残業をするというのが、どうも苦手らしい。

 

定時の6時になったんだから、帰ってもいいでしょ。

そんな感じでなるたけ早く帰るために、全力で仕事をする。

 

上司の人は「今の若いもんは定時になったからといって勝手に帰ってしまう。自分が若い頃は終電まで働くのが当たり前だった。働き方改革と言われているし、下手に文句を言うとパワハラ扱いされるから怖くて叱れないよ」

そんなことを私にぼやく上司もいた。

 

 

自分も薄々感じていたのだが、やたらと最近騒がれている「働き方改革」の流れを受けて、実際に働いている現場は軽く混乱状態にあるみたいだ。

 

残業は良くない。定時には帰ろう。

 

そんな社会的な風潮のため、仕事もろくに終わっていないのに、勝手に帰ってしまう若者がとても多く、上司は困惑しているようだった。

 

「文句を言おうにも、社会がそういう流れだからな」

 

ももちろん残業などせず、さっさと帰って家で映画でも見て過ごしたい。

だけど、社会人として仕事もきちんと終えずに定時だからといって帰ってもいいという風潮はどうなのか? と少し考えてしまう。

実際、自分のような社会人1年目がそう感じているのだから、上の世代の人なんてもっと働き方の変化に困惑しているのかもしれない。

 

残業は良くないからといって、山のようにある仕事をいつ片付ければいいんだ?

休日に家でやるしかないだろう!

そんなことをぼやく上司もいた。

 

 

なんだろう、この違和感。

日本人が言う働き方改革って、本当に改革になっているのだろうか?

 

そんな違和感を覚え始めていたこの頃、この本と出会った。

「週4時間だけ働く」

毎週80時間以上働いていた起業家が、週に4時間だけ働くようにしたら、売り上げが4倍に増えたという逸話を本にまとめたベストセラーだ。

 

最初は、週に4時間だけ働けばいいというフリーランス向けの本かと私は思っていた。

しかし、違うのだ。

決して、楽して稼ごうとすることを謳った本ではないのだ。

 

 

この本は「生産性」について描かれている本だった。

 

 

朝8時半から6時までの定時まで、会社の中にいなければいけないという固定観念が世の中にはある。

しかし、定時の6時まで会社にいて、あなたはいったいいくらの利益を会社にもたらしたのだろうか?

 

生産性の観点からしたら、定時までの時間に会社のパソコンの前に座っていても意味がない。利益を確保できることが分かった時点で、家に帰った方が、人件費の削減にもつながる。何より会社員をやる上でのストレスが極端に減るというのだ。

 

私も一度経験があるのだが、仕事をする上で抱えるストレスは、失恋した時の約50倍はダメージがくる。

自分と合わない会社にもし入ってしまったら、尋常じゃない量のストレスが本人に降りかかってくるのだ。

本当に病んでしまい、自殺未遂する人も出てきてしまう。

 

ところが仕事が嫌で嫌で仕方がなくても日本人は辞めれないのだ。

 

3年以上勤めないと転職で困る。

我慢して働かないとダメだ。

 

そんなことを思ってしまい、ずるずると精神が病むまで、会社に居座ってしまうのだ。

私も昔はそうだった。

とことん働きてぶっ倒れて人身事故を起こしそうになってしまった。

 

 

この本を読んでいるうちに、日本人の働き方、特に生産性についてとても考えさせられてしまった。

 

毎日いやいや6時まで仕事をするのだったら、必要な箇所だけピックアップして、週に4時間だけ集中して働いた方が、生産性の意味で会社の利益に結びつく。

 

要は生産性の観点で自分の仕事を捉えられるかが大切なのだという。

 

社内には夜の11時すぎまで会社に残って黙々と仕事をしている人たちがいる。

会社に利益をもたらすために必死こいて働くことはとてもいいことなのかもしれない。

しかし、自分もそうなのだが、働くことに満足してしまい、仕事しているふりをしているだけで、利益を生み出していないサラリーマンが、日本には多い気がするのだ。

 

残業をすることに満足してしまい、肝心の利益率というものを疎かにしている。

 

この本の中には何度も書かれてあった。

これからの時代は、いかに生産性を高めていけるかだ。

 

定時まできちんと働いて給料をもらえて安定した生活を送れる時代はもう終わった。

これからは個人個人が生産的に動いて、新しい働き方を模索しなければいけない。

 

世の中全般が、生産性の観点から仕事を捉え、きちんと必要な仕事だけに集中し、無駄を削ぎ落としたら、仕事で精神を病む人も減ってくるのではないのか?

 

そんなことを考えさせられる良著だったら気がする。

 

 

 

 

 

紹介したい本

「週4時間だけ働く」   ティモシー・フェリス著

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつも「生きづらさ」を抱えていた私が見つけた、ファインダー越しに見える世界  

 

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「どこへ向かっているんですか?」

私はカンボジアのゲストハウスで出会った日本人の方にこう尋ねられた。

 

どこへって……

その時の私は本当に精神的にヘトヘトだった。

新卒で入った会社を数ヶ月で辞めてしまい、精神どん底のままひとまず日本を離れようと海外に旅に出たのだった。

 

外国に行けば自分を変えられる。

そう思っていた。

 

日本にいた頃の私はとにかく常にマイナス思考で、いつも心の奥底で生きづらさを抱えて過ごしていた。

 

なんだ、この違和感は。

どこにいても自分はここには存在しないような空気に包まれ、友達との会話にも全く入ることができずにいた。

 

飲み会の席にいても友人たちの会話についていけず、いつもぐったりとしてしまう自分がいたのだ。

 

自分の居場所はどこなのだろうか。

自分の居場所は日本にはない。

そんな後ろめたさを常に抱えながら生きていた。

 

「もうどうにでもなれ」

新卒で入った会社を数ヶ月で辞め、いきなり暇になってしまった私は、海外に飛び込んでみることにした。

学生時代には何度か海外旅行をした経験はあるが、一ヶ月以上の旅をする経験は初めてだった。

 

海外に行けば自分を変えられる。

きっと自分の居場所が海外にはあるはずだ。

 

24歳にもなって私はようやく自分探しの旅に出る決心をしたのだった。

 

ひとまず物価が安い東南アジアに行こう。

そう思い、私はタイ行きのチケットを買って、東南アジアに向けて旅立つことにした。

 

約一ヶ月近くかけて東南アジアをぐるっと回って、いろんな人たちと出会った。

タイのゲストハウスに一ヶ月以上こもっている人。

日本を離れ、2年近く外国を放浪している人。

 

みんなどこか日本に居心地の悪さを感じ外国に旅に出てきた人ばかりだった。

 

そんな人たちと会話をしながらも、心の奥底で思ってはいけないようなことを感じていた。

 

この人たちは日本から逃げてきた人たちだ。

外国に放浪の旅に出ている人たちはみんな独特で面白い人たちばかりだ。

だが、どうしても外に刺激を追い求めているばかりで、本人の中身はどうなのかといったら空っぽな気がしてならなかった。

 

 

この人たちは日本から逃げてきただけだ。

そう感じていた自分も日本から逃げてきただけだった。

いつも人のことをバカにしていて、自分はなんてカッコ悪いんだろう。

 

海外に行けば自分を変えられると思っていた。

しかし、日本で居心地の悪さを感じていても、世界中どこに行っても、自分の中の価値観は変えられずにいた。

 

この人を見下す視線をなくしたい。

人よりも上に立って、いつか何者かになれると考えている自分をなくしたい。

そう思っていたものの、実際の自分はただの弱虫で、意気地なしだった。

 

 

どこに行っても自分の性格は変えられない。

自分の居場所は一体どこなのだろう。

 

そんなことを思っていた時、とあるカメラマンと出会った。

その人はいつもフィルムカメラを抱えていて、いい景色を見た瞬間、いつもファインダー越しに世界を眺めているような人だった。

 

 

その人は私にこう言った。

「カメラを持てば、世界が変わって見える」

 

 

どういうことだ?

私は正直そう思ってしまった。

学生時代には映画漬けの日々を送っていたので、私はもともとカメラには興味は持っていた。

あの独特のフィルムカメラ特有の空気感といい、身の回りの景色を切り取っていくカメラマンの視線というものにとても憧れは抱いていた。

 

しかし、カメラとなるとレンズ代も含めて結構な値段になるので、どうしても手を出すことを躊躇してしまう自分がいたのだ。

 

その人は何度もこう言った。

「君はカメラを始めたほうがいい。カメラを持てば人生が変わる。世の中の見方が変わってくるよ」

 

本当かな。

私は半分疑いの目を持ちながらもファインダー越しに見える世界に憧れを抱きながら日本に帰ることにした。

 

 

 

日本に帰ってからは大変だった。

海外ではバックパッカーという謎の肩書きだけで、世間的にはなんだかかっこいい人みたいなポジションにいれたが、日本に帰ると、ただのプー太郎のフリーターである。

すぐに職など見つかることはなかった。

 

それでもなんとか転職活動を繰り返し、内定をもらえた会社を見つけた。

その会社はカメラを扱う会社だった。

 

なんだかバックパッカーをやっていた時に出会ったカメラマンの人の言葉が脳裏にこびりついていたため、気がついたらカメラ関係の会社に辿りついたのだった。

 

 

「カメラを持てば世界が変わって見えるよ」

その言葉がずっと脳裏にこびりついていた。

 

結局、お金を貯めるのに8ヶ月以上かかったが私は念願の一眼カメラを手に入れた。総額16万以上に出費である。

 

カメラを買った日から、早速私は写真を撮るばかりの生活が始まった。

どこに行くにもカメラを持っていく。

仕事中も上司にバレないようにシャッターを切る。

そんなカメラ漬けの毎日だ。

 

今になって、あのカメラマンが入っていた言葉の意味が分かり始めていた。

カメラを使うようになって気が付き始めたこと。

 

それは世界の切り取り方だった。

 

カメラはライティングにとても似ている。

自分の身の回りの風景を切り取ってコンテンツに昇華していく作業だ。

身の回りの風景をどう切り取るかは自分次第なのだ。

 

 

私は日本にいた頃、いつも居心地の悪さを感じていた。

どこに行っても自分の居場所はここじゃない。

きっともっと自分を認めてくれる場所があるはずだ。

そんなことを思い描き、常に宙に浮いて浮足立っていた気がする。

 

なんでこの社会はこうも生きづらいのだろうか?

そんなことを常に感じていた。

 

しかし、社会は生きづらいと思っている人にとって、社会がそう見えるだけなのだ。

自分のファンダー越しに見える世界をどう見つめるかは、常に自分次第なのだ。

 

この社会をどう切り取ってみるかは自分次第。

そのことを、カメラを手に取るようになってから、ひしひしと感じ始めた。

やはりあのカメラマンが言っていたことは正しかった。

 

「カメラを持てば、世界が変わって見えるよ」

 

 

 

 

実体験をもとにしたほぼフィクションです。