【ミスマッチした新入社員に告ぐ】「3年は続けろ」と大人は言うけども
「君たち、自分で選んだ道なんだから!」
多くの大人は新入社員に向かってこう言う。
「自分でこの会社を選んだんだから」
「もう大人なんだから、職場は学校じゃないんだ」
確かに仕事を選ぶのは自分自身の問題だ。
しかし、どうしてもその言葉に納得できない自分がいるのだ。
「自分でこの仕事を選んだんでしょ?」
30代以上の方が時々発するこの言葉だけには妙に納得できないのだ。
「自分で選んだ道なんだから、しっかり仕事をしろ」
確かにその通りだ。
お金をもらう以上しっかりとそれ相応の仕事をしなければならないのは当然のことだ。
だけど、自分たちの意思で、自分たちがする仕事を全ての新入社員が選んできたのかと言ったらそこは違うと思う。
今の新入社員のほぼ99パーセント以上は、ただ単に情報に流されて、今いる会社に辿りついただけなのだ。
2000年に入ってから、大手人材派遣会社を中心に、就活情報サイトが始まった。
ネット上でほぼ全ての情報が管理され、3月から6月までの期間で浴びるような情報の中から、就活生は自分が進むべき道を選ばなければならない。
わずか3ヶ月間で自分の働く会社を決めなければならないのだ。
当然、名前が知られた大手企業ばかりに人が集まってきてしまう。
ひと昔では受けても3〜4社だった時代があるが、今は平均的にほとんどの就活生が、20〜30社をエントリーしている。
その中から運良く内定が決まった会社に就職することになるのだ。
大手企業などはエントリー数だけで1万人を超えてくるため面接だけでも3回から4回するのが当たり前だ。
どこの会社も平均的に3回以上面接をすることになるので、就活の時期になると皆焦りだし、何が何でも受かろうと自分を大きく見せるようになっていく。
企業側は本気で働いてくれる新入社員を追い求めているが、就活生はただ単に内定がもらいたくて必死なのだ。
だから、自然と企業と学生同士のミスマッチも起きてくるのは当然だと思う。
5月を超えてくると「こんなはずじゃなかった」と嘆いている新入社員も多いだろう。
私もそんな新入社員の一人だった。
何かの縁で辿りついた制作会社の世界は、思った以上にハードだった。
自分が好きで選んだ道だから仕方がない。
しかし、実際に仕事を経験してみると想像以上にハードだ。
毎朝4時まで続く徹夜作業にノイローゼ状態になり、私は一度、人身事故を起こしかけたこともあった。
「こんなはずじゃなかった……」
そう何度嘆いたことか。
私はそして会社を辞める決断をした。
ノイローゼになりすぎて、うつ状態のまま上司に辞めるということを伝えたみたいだ。
後から、上司から「あの時、本当にお前頭おかしくなっていたぞ」と言われた。
頭がおかしくなり、なぜかラオスの山奥まで放浪の旅に出た私は、逃げてもダメだなと思い、日本に帰ってくることになる。
そして、日本社会の厳しさを知った。
職場のミスマッチを経験し、一度社会のレールから抜け出ただけで、ここまで社会は厳しいものだとは思わなかった。
転職をしようにもどこも受からないのだ。
大学4年の時は、なんだかんだ新卒というプラチナチケットを持っているため、否が応でもエントリーシートなら通過する企業があった。
しかし、一度就職してしまい、退職すると、自分の中では大したことがないように思えても、企業側からすると「会社を数ヶ月で辞めた人間」というレッテルを貼られてしまうのだ。
こんなに社会って厳しいなんて……
私はノイローゼ状態になり、アルバイトすらできなくなってしまった。
仕事をすること自体が怖くなってしまったのだ。
アルバイトをしていても、常にやる気がない自分を見てよく店長に怒られていた。
「だからフリーターはダメなんだ!」
そう思われていたのだろう。
人生どん底の一年間だった。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞めた無職。
それがその時の私が持っていた肩書きなのだ。
一度会社とのミスマッチを経験しただけど、こうも社会の目線は変わるものなのか……
そう嘆いていた頃、私はライティングに出会った。
昔からものを書いたり、作ったりすることは好きだった。
好きだったが、自分なんて特に書くものなんて持ってないし、特に書きたいものなんて持ってなかった。
しかし、なぜかよくわからないが無性に書きたくなったのだ。
日々の不安をかき回すかのように書いて、書いて、書くまくっていた。
すると、不思議なことが起こった。
転職活動もうまくいきだしたのだ。
なんとか数ヶ月後、今働いている会社に内定をもらえ、再び働くようになったが、今思うと、あの時私はただ単にポジティブ思考になっていたのだと思う。
ライティングというものは不思議なものだ。
書いて吐き出してを繰り返していると、自然と世の中に対してアンテナを張るようになってくる。
いつもポジティブに記事を終わらせようとすると、自然と世の中から入ってくる情報もポジティブなものが増えるのだ。
常にポジティブに物事を捉えるようになると、自然と状況も好転してくるものだ。
面接の時の私は凛としていたのか……
書類選考や面接で通過する率が増えたのだ。
多分、書類選考で落とされても、まぁ、いいかと開き直れるようになったのだろう。
どんどん書いていくうちにいつしか就職できるようになったのだ。
私は無職のプー太郎から、いちよ会社員という肩書きらしきものをもてるようになった。
だけど、今でも無職のプー太郎という肩書きを持っていた時代を思い出すことがある。
もし、あの時私はライティングに出会ってなかったらどうなっていたのだろうか。
もし、今働いている会社と出会えなかったら、どうなっていたのだろうか。
考えただけでゾッとしてしまう。
多分、今でも適当にアルバイトを続けて、暗い目をしたまま、この他人に無関心な社会の中で生きていくことになっていたのだろう。
会社帰りに暗そうにしている新入社員を電車の中で見かけるたびに、私は過去の自分を思い出してしまう。
私も企業とのミスマッチを経験し、心底苦しんできた一人だったのだ。
ミスマッチを経験すると、死にたくなるほど仕事が辛くなるのはわかる。
私も一度、経験した。
毎日、会社の上司に怒鳴られ、相性も良くない同僚や上司といつも囲まれて過ごすのだ。
ストレスが溜まり、気が変になるのも当然だ。
大人の方々は「どんな仕事でも3年は続けろ」という。
3年は働かないとその仕事はわからない。
確かにその通りだと思う。
とにかく続けないとその仕事の面白さや内容など、わかるはずがないと思う。
だけど、ミスマッチを経験している人に向かって「3年も働け!」なんて、
私はいえない……
死にたくなるほどだったら逃げ出していいとも思う。
ミスマッチをして、毎日会社に向かうのが辛い人がいたら、
会社を辞めるか、自分を会社に合わせるか、それしかないのだと思う。
自分を会社に合わせるのが辛かったら、転職など他の道を考えるしかない。
だが、3年以内で辞めると、日本の社会では「3年以内で会社を辞めた人間」というレッテルを貼られてしまう覚悟も必要になる。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞め、世の中を放浪していた私は、ミスマッチをしている新入社員を見ていると、どうしても笑えない。
他人事とは思えないのだ。
すぐに辞めたほうがいいとはいえないが、一つだけ転職の基準にしたほうがいいことははっきりとわかった。
転職をするべき理由……
それは、夢を追う時だと思う。
転職すると決意するなら、自分の夢を追う時だ。
テレビ番組の制作だろうが、どこかの大企業の営業だろうが、どの仕事だろうと、
やっていることは基本変わらない。
人とコミュニケーションをとって、仕事をしている。
ただ、それだけだ。
相性が悪い上司がいるだろう。
会社の雰囲気が悪くて胸が詰まるような苦しみにあっている人もいるかもしれない。
だけど、環境のせいにして逃げても、その倍の苦労が後に待っているだけなのだ。
本気で仕事がつらくて、今にも死にそうな人がいたら、すぐに逃げ出したほうがいい。
しかし、環境のせいにして、自分の理想の職場というものを求めている人がいたら、少し思いとどまったほうがいいと思う。
環境のせいにする癖がある人は、どの職場に行っても基本的に変わらない気がするのだ。
だから、転職を決意するときは、本当に自分がやりたいこと。
自分の夢を叶える決意をする時だと思う。
新卒で入った会社を数ヶ月で辞めた自分が言うのも変かもしれないが、ミスマッチで苦しんでいる新入社員を見るたびにそう思ってしまうのだ。
承認欲求に振舞わされていた私が見つけた、生きづらさを緩和させる唯一の方法
「承認欲求なんて消えてしまえ」
私はいつもそう思っていた。
フェイスブックなどに投稿したとき、「いいね」の数が増えれば嬉しいものだ。
しかし、いつしか「いいね」をもらうために投稿するネタを探して歩き回っている自分に気がつくのだ。
「いいね」がもらいたい。
誰かに承認してもらいたい。
そんな思いが、私の心の中であったのだと思う。
そのことに気がつくたびに私はこう思っていた。
「承認欲求なんて消えてしまえ」
とあるきっかけからライティングを学ぶようになり、こうして毎日書く習慣をつけてきたが、やはり、プロ級のバズを起こせるライターさんは世の中にいるものだ。
特に書く訓練をしていなくても、ば〜とバズを発生させることができるのだ。
そんな人たちがフェイスブックに記事を投稿するたびにあっという間に、「いいね」が100を超えていく。
やっぱり凄いや。
自分なんていくら頑張ってもバズを起こせない。
そんなことをいつも思ってしまうのだ。
その嫉妬心ともいうべき感情から、元来、大の負けず嫌いの私はこうして毎日書く習慣をつけてきたのだが、努力なんてしていても無駄なんじゃないかと思うことが何度もあった。
いくら書いたって、あの人には勝てるはずがない。
どんなに書いてもプロになれるわけがない。
やはり、プロ級のバズを起こされる人たちはすごい。
本能的というか、直感的にというか、感覚的に人に共感されるネタを探すのが超絶にうまいのだ。
はあちゅうなんて、世の中に対するアンテナの張り具合が絶妙にうますぎて、すごいと思ってしまう。
ものを書くことや何かものを作るという上では、世の中に対して常にアンテナを立て、面白い情報を集める習慣が欠かせないと思う。
そのアンテナを張り具合が、生まれつきうまい人がこの世にはいるのだ。
フェイスブックの「いいね」が100を超えてくる人たちなんて、その類の人なのかもしれない。
そんな人たちを見て、やはり何も特別な素質を持っていない私は、自分はやはり才能がない……と思い、へこんでいた。
自分なんて才能がない。
毎日書く意味がない。
そう思っても、満たされない承認欲求を追い求めていたのだろうか……
毎日書いて書いて書きまくってを繰り返していた。
よく考えれば、いつも私を突き動かしていたのは承認欲求だった。
あの人に勝ちたい……だから、努力する。
その繰り返しだ。
「この人には勝てない」
そう思うたびに私はスイッチを入れてがむしゃらに努力はしてきた。
しかし、いつも勝てなかった。
浴びるように映画を見て、映画を撮るまくっていた大学時代も、一人の彗星の如く現れた一人の天才肌の人を見て、スイッチが入り、死ぬほど映画を撮りまくるようになったのだ。
なんだこの感受性は……
痛々しいまでの青春の輝きや、痛みを描くその映画作家はあっという間に、プロになり、あっという間に小松菜奈主演で映画を撮ることになっていった。
この人に勝ちたい。
この人のような映画を作りたい。
そう思って、私はあの頃、浴びるように映画を見ては、脚本や物語構造を研究し、映画をアホみたいに撮りまくっていた。
あの人のような映画を作りたい。
その一心だったのかもしれない。
70分以上の長編映画も撮ってみた。
しかし、とてもじゃないが人に見せられる出来じゃなかった。
答えは簡単だった。つまらないのだ。
人の真似ばかりしていて、何の特別な物語もなく、ただ単につまらないセリフが延々と続くだけの映画だったのだ。
私は常に、何者かになりたい。
人とちょっと違ったクリエイティブな人間になりたいと心のそこで思っていた。
誰かに承認されたい。
その一心だった。
その承認欲求が空回りして、ただ自分が心動かされた映画をパロディと称して、真似てただ自己満足に浸るだけの映画を作り続けていたのだと思う。
誰かに承認されたい。
その思いだけで作られた映画なんて面白いわけがない。
70分間の映画も、40分を超えるゾンビ映画も、全て映画祭で賞を取ることはなかった。
自分なんて才能がない。
そう思った私はいつしか、就活の時が来て、自然と周囲の波に流されるかのように就活というものをしていった。
何度も感じていた……
自分にクリエイティブな才能がないのはわかってきている。
だけど、心のそこでは、どこか自分は才能があるのではないのか?
遅咲きになるのかもしれないという淡い期待を抱いている自分に気がついていた。
クリエイティブな才能がなくても、どうしても昔抱いた夢を諦めきれずに毎日こうして書くということを繰り返しているのだが、やはり現実は厳しいものだ。
どんなに自分ではいい記事だと思っても、周囲には大量のバズを発生される人がたくさんいた。
そんな人たちを見るたびに私の心の中で諦めの気持ちが芽生えてきた。
自分なんてどんなに努力しても勝てるわけがない。
そんなことを常に考えてしまうのだ。
毎日書いて、書いてを繰り返しても、こんな努力無駄なんじゃないか?
そう思っているうちに、5ヶ月過ぎていた。
すると、ある時、ふと気がついた。
これって自分自身の戦いなんじゃないのか?
私はいつも他人と見比べて、劣っている自分が悔しくて仕方がなかった。
いつもいつも他人と見比べてしまう癖が付いていたのだ。
誰かに承認されたい。
その思いだけで突き動かされていた。
だけど、社会人をやるようになり、忙しい毎日を過ごしていると、いつしか自分の中にある承認欲求は無くすことはできないということに気づき始めた。
どんなに承認欲求が肥大化してもなくすことは無理なのだ。
なくすのではなく、承認欲求がある自分を忘れることしかできないのだ。
誰かに承認されたいと空回りしていた自分は、いつしか承認されることよりも、自分自身に課したルールから負けないように努めることの大切さに気がつき始めた。
プロの小説やライターになる人たちはすごい。
まず、大量のバズを起こさせる記事を書けるのだ。
だけど、プロ級のライターとプロのライターの間には大きな溝があるという。
自分なんてプロでもなんでもないが、薄々その溝に感づいていた。
プロになれる人は、自分自身にだけは絶対負けないのだ。
何が何でもプロになってやるという気合いから、自分だけには負けないように努めるのだ。
往路として食っていく段階になると、一般の評価も大切だが、それ以上に自分自身に負けないということが大切になってくる気がする。
他人の評価は二の次だ。
大切なことは自分自身に負けないこと。
常に承認欲求に振り回されていた私は、いつしか自分にだけは負けないように努めることの大切さに気づき始めていた。
身の回りには自分より面白い記事を書ける人は何人もいる。
大量のバズを発生させられる人も何人もいる
天才肌のクリエイターのセンスで、あっという間にプロとして活躍する映像作家の人もいる。
そんな人たちを見るたびに、才能がない自分を感じていた。
しかし、大切なことは他人と見比べるのではなく、自分自身にだけは負けないように努めることなのではないのか?
何が何でも人を魅了するコンテンツクリエイターになんてやると決意した、自分自身に負けないことではないのか?
いつも他人と見比べて、承認欲求に振り回されていた私が見つけた答えがそれだった。
他人なんかどうでもいい。
世の中には自分より才能がある人なんてゴロゴロいる。
そんなこと、否が応でも気がついている。
それでも私は書きたい。
大切なことは自分自身に負けないこと。
そう言い聞かせて、今日も私はライティングに励んでいる。
ただのホラー好きの貧しい青年が、大ベストセラー作家の映画化権をたった1ドルで買い取れた理由
「ピンポーン」
貧しいボロボロの服装を着たフランク青年は、とある大ベストセラー作家の家の前に立っていた。
彼は子供の頃から、その作家の大ファンで、何度もなんども読み直していた。
一字一句全て覚えているくらいだ。
その作家の影響でホラー好きになったと言って過言ではなかった。
もうすぐであの人に会える。
そう思って、フランクは胸を躍らせていた。
ガタンとドアが開き、子供の頃から憧れていた作家が目の前に現れた。
フランク青年が会いに行った作家……
それはホラーの帝王と言われているスティーブン・キングだった。
「やあ、こんにちは」
スティーブン・キングはボロボロの服装を身にまとったこの貧しい青年を暖かく迎い入れてくれた。
暖炉の前に座り、緊張を隠しながらフランクは本題を言う。
「あなたの小説の映画化権を買いたいんです」
スティーブン・キングはこの若い青年の目の眼差しを眺めていた。
ただ純粋な眼差しだったのだ。
彼は本気だ……
子供の頃からフランクは貧しい家で育ち、移民の両親の影響で、各地を転々とする生活をしていた。
難民収容所があった地域で生まれ、子供の頃から、収容所に入れられている移民たちや受刑者をフランクは見ていた。
自分もいつかここにいれられる。
そんな思いが彼の中にはあったのだろう。
怖くはあったが、子供が持つ好奇心からか、その収容所の周りを囲う大きな壁を見て、そんな思いに馳せていた。
「お前の両親は移民だ! 出て行け」
学校ではクラスメイトからそう言われ、いじめられていた。
自分は移民なんだ。
だから、ここにいちゃいけないんだ。
壁で囲まれた自分と同じような移民を見ていると、なんだかやるせない気分になり、彼は自宅に閉じこもるようになっていった。
自分なんていなくても変わらない。
そう思い込んでしまったのだ。
彼は現実逃避の意味も込めて、映画館に通うようになった。
その頃は、安い低予算のホラー映画が大量に撮られていた。
低予算のため、役者の演技も棒読みで、見ていられるクオリティーのものでもなかった。
この低予算映画はもともと、映画館に来るカップルが女の子を口説くために、安い金で作られ、使い捨てされる映画だったのだ。
全く怖くもなんともないホラー映画に見飽きた客はさっさと帰って行った。
しかし、そんな低予算映画でもフランク少年の心を鷲掴みにした。
自分もいつか、人を楽しませるようなホラー映画を作ってみたい。
そう思うようになったのだ。
「あなたのホラー小説を映画化したいんです」
24歳になったフランク青年は、アメリカ一の大ベストセラー作家を前にして、そう頼み込んでいた。
頭を抱えているスティーブン・キングはこうつぶやく。
「君は今まで映画を撮ったことはあるのかね?」
鋭い眼差しでフランクを見つめるこの作家に嘘はつけないと思い、彼は本当のことを言った。
「まだ一度もありません」
スティーブン・キングは続けた。
「君みたいな青年は初めて見た。何人も私の小説の映画化権を買いに来るが、君ほどしつこい人は初めてだ。私のエージェントも頭を抱えていたよ。あまりにもしつこく電話をかけてくるし、オフィスにも現れるから」
彼は赤面してしまった。
どうしてもホラー映画が撮りたかったのだ。
しかし、人脈も金もない無一文のフランクには、ツテがなかった。
ひたすらホラーの帝王と呼ばれるスティーブン・キングのエージェントに頭を下げるしか方法がなかったのだ。
「そんなに情熱的に私の小説の映画化を頼み込んでくる人はそういない。だから、一度会いたくなったんだ」
フランクは全くの無一文で、何も実績を持たない自分と会ってくれたスティーブン・キングにただ感謝するしかなかった。
たぶん、いつものようにただの無一文の青年に映画化権をくれたりすることはないだろう。
それでも来ただけマシだった。
フランクは心のそこから、スティーブン・キングに感謝すると同時に、半ば諦めかけていた。
「ただ、すまんが私のホラー小説の映画化権は、ほとんどすべて売ってしまっているんだ。残っているのは非ホラー小説なんだが、それでよければ君に売るよ」
彼は驚いた。
あのスティーブン・キングの映画化権を買えるなんて!
しかし、ホラー小説ではないのか……
一体、ホラーではない彼の小説はどんな作品なのだろうか。
「君は見たところ一文無しだね。たいした短編ではないが、この作品なら1ドルで君に譲る」
そして、フランク青年は、大ベストセラー作家からとある短編の映画化権を1ドルで買い取ることになったのだ。
フランクはその短編を読んでみて、涙が溢れてきた。
それは「希望」の物語だった。
どんなに残酷な運命に翻弄されても、決して「希望」を見失わない大切さを伝える物語だったのだ。
いつか、この作品を世に出さなきゃ。
それから彼は死に物狂いで仕事をするようになった。
超低予算で興行成績など、ほとんど見越されていない低予算映画でも、彼はしっかりと脚本を書いていった。
いつか、この短編の映画化をしたい。
その思いだけが彼を突き動かしていたのだ。
誰も見ないようなグチョグチョの低予算ホラー映画も、彼はきちんと、ファン層向けに脚本を書き、ちょっとずつだが彼の名は業界内で知られるようになっていった。
「あのホラー映画、クソみたいなできだが、脚本だけは良かったよな」
そう言われる回数も増えていった。
フランクは低予算映画でも、きちんと構成を考え、大衆娯楽映画にも負けないようなクオリティーの映画を目指していったのだ。
ホラーの帝王との約束を果たすため、どんなにくじけそうなことがあっても「希望」を忘れずに、仕事に打ち込んでいった。
いつかあの短編の映画化をする。
それだけがフランクを突き動かしていたのだ。
そして、10年後、とうとう映画化のチャンスが来た。
まるで客が入らないホラー映画でも、フランクが担当する脚本の回だけは異様に評判が良かったため、彼の腕を見込んで監督の仕事の依頼がきたのだ。
フランクはスティーブン・キングから1ドルで譲り受けた短編の映画化を希望していった。
しかし、映画会社はなかなかゴーサインを出さなかった。
あのスティーブン・キングとはいえ、その短編は名前がほとんど知られてない。
そんな短編を映画化しても客が入るとは思えなかったのだ。
しかし、フランク青年は必死に映画会社を説得し、ついに映画化に踏み出していった。
フランク青年がスティーブン・キングから1ドルで譲り受けた短編小説……
それは「刑務所のリタ・ヘイワーズ」という。
無実の罪で、刑務所に入れられるも「希望」を捨てずに戦い抜いたとある受刑者の物語だ。
フランクは、その短編の中で、決して「希望」を捨てずに戦い抜く主人公に共感していたのだろう。
彼もどんな苦境にあいながらも決して「希望」を捨てることはなかった。
そのわずか1ドルで映画化権を譲り受けたその短編は「ショーシャンクの空に」というタイトルで映画化されることになる。
今でも幅広い層から支持される不朽の名作だ。
どんなに苦境に立たされても決して「希望」を捨てることのなかった主人公の姿は、どこか監督であるフランク・ダラボンの姿に似ているのかもしれない。
毎日、繰り返される満員電車の中での死闘を辞めた時……
「暑い、苦しい……」
毎朝、満員電車に乗って、いつも思うことだ。
何で、こんなにぎゅうぎゅう詰めにされながら、電車に乗ってんだろう……
ホームでは駅員が、あまりにもパンパンでドアからはみ出している乗客を無理やり押し込んで、電車の中に詰め込んでいる。
車内はもう、ぎゅうぎゅう詰めの缶詰状態だ。
多くのサラリーマンはスマホをいじりながら、駅はまだか……まだか……
とただ、耐え凌ぐ毎日だ。
雨の日などは、とんでもないことになる。
バスや車、徒歩で通勤していた人が電車に乗り込むことになるので、いつも以上にパンパンの状態で電車に乗ることになるのだ。
多くの人が手に傘を持っているので、その分の面積も加えて、もう車内はぎゅうぎゅう詰めのパンパンで、蒸し風呂状態だ。
もう、満員電車嫌だ……
私はそう何度も思った。
なんで東京の通勤ラッシュはこうもひどいんだろう……
日本の全人口の大半が、小さな面積しかない東京に集中しているという。
地方にも中小企業は数多くあるが、企業の本社は東京にあるケースが多い。
そのためか、地方出身の人でも、就職の段階で東京に出てくる人が多いと聞く。
「東京は華やかでいいところだような」
そんな声をたまに聞くが、私は東京に憧れる人を見るたびに、
東京で暮らすとあの地獄の通勤ラッシュに耐えて会社に行く羽目になることをどうしても伝えてしまう。
私はこの通勤時間を使って、いつも本を読んでいた。
ぎゅうぎゅう詰めで、身体中が痛かった。
蒸し暑かった。
その苦しさを紛らわすためにも、本を読んで時間を忘れるように努めていたのだ。
多くの人は手を手すりにかけて電車に乗っている。
私はというと、いつも本を読むために、片手で本を支え、手すりを持ち、電車の揺れを周りの人の体を借りて、防いでいた。
何度か急ブレーキがかかり、前のめりに倒れそうになった時があった。
なんとか耐え凌がねば。
毎日、満員電車に乗るたびにそう感じていた。
東京の朝のラッシュは7時30分から8時30分の間だ。
どうしても朝礼が8時30分から9時にある会社が多いので、その時間帯に人が集中してしまうのだ。
私は何度か、電車に乗る時間帯をずらしてみた。
30分、早めに家を出ても、やはりどうしても通勤ラッシュと被ってしまう。
急行だろうが各駅だろうが、人でごった返しているのだ。
もう嫌だ! 満員電車なんて乗りたくない。
そう何度思った事か……
毎日繰り広げられるサラリーマンたちの死闘に飽き飽きしてきた頃、ゴールデンウィークがやってきた。
ちょっとリラックスしよう……
そう思った私は、京都にぶらっと訪問することにした。
京都は中学と高校の修学旅行で行ったことはあるが、きちんと見たことはなかった。
学生の頃の私は、歴史などに興味がなく、寺院を見学しても、ただぶらっと眺めるだけだった。
大学時代に海外をちょっと放浪した際、何度も外国人に日本のことについて質問された。
「桜の写真は持っているか?」
「日本の漫画は面白いよな」
「舞妓さんってどんな人たちなんだ」
海外に行って、日本ってこんなにも注目されている国だと知り、驚いてしまった。
それと同時に、答えに窮屈している自分から、私は海外のことばかりに目を向けていて、日本のことを知らない自分に気がついたのだ。
「一度、日本のことをきちんと知ろう」
そう思った私は、連休中を利用して京都にぶらっとたびに出ることにした。
前から一度は行きたいと思っていた、竜安寺や仁和寺に行ってみた。
日本庭園は海外でも注目されていると聞いたことがある。
どの寺院に行っても外国人ばかりで、日本文化の注目され具合に私は驚いてしまった。
本当にどこに行っても外国人ばかりなのだ。
私は、ふと仁和寺に入って、綺麗な庭園に入っていった。
そこには目を見張るような美しい景色が広がっていた。
壁を遮るように広大に広がる森の景色……左右対称に作られた池……
真っ白い砂……
そこにはどこまでも広がる広大な庭園があったのだ。
私はあまりにも美しい景色から、仁和寺にある縁側でゆっくりと腰を下ろし、小一時間ぐらいボ〜としてしまった。
特に何かを考えることもなかった。
ただぼ〜として、仁和寺の庭園を眺めていたのだ。
ゆっくりと流れる時間に身を任せているうちに、私はふと思った。
私は普段、あまり物事を見ていなかったんだ。
毎日、満員電車にぎゅうぎゅう詰めのパック詰めにされ、忙しい毎日を理由に、世界をきちんと眺めたことがなかったのだ。
仁和寺の縁側で小一時間も座るように、ゆっくりと時間に身を任せ、周囲を見回してみると世の中には新しい発見があるかもしれない。
仁和寺の縁側に座っている時に、あまり普段、物事をきちんと見ていない自分に気がついたのだ。
東京に帰ってから、私は電車に乗るたびに、なるべく車窓側を取るようにしてみた。
そこから見る景色を眺めているうちに、朝の東京で繰り広がれらる人々の営みが身にしみて感じるようになった。
ある人はスマホで恋人と連絡を取り合っているのかもしれない。
ある人は、仕事に苦しみながらも家族のために会社に向かっているのかもしれない。
毎日、繰り返されている満員電車の死闘も、人々の営みがきちんとそこにはあるのだ。
一歩、立ち止まれば、普段見えなかったことまでもだんだん見えてくるようになってきた。
もしかしたら、これはライティングに似ているのかもしれない。
世の中に常にアンテナを貼って、書くためのコンテンツになる情報を選び取っていると、普段、見ていなかった物事にも気づくようになり、ありふれた日常が愛しく思えてくるのだ。
一歩立ち止まれば、見えないこともきちんと見えてくる。
私が仁和寺で学んだことはそれだったような気がする。
毎日、満員電車に乗るのは正直、きつい。
しかし、見方を変えればいろいろな発見がそこには眠っているのかもしれない。
そんなことを思いながら、今日も私はぎゅうぎゅう詰めのパック詰めになっている東京の満員電車の中に飛び込んでいく。
正直、言ってしまうと……
「何の映画が一番好きですか?」
私が学生時代に年間350本以上映画を見ていたという話をすると、
まず間違いなく相手から聞かれる質問だった。
そう聞かれるたびに私は戸惑いを隠せない。
やれやれ、と思うのだ。
私は休みの日となると1日6本は映画を見て、映画を浴びるように見まくっていた時期があった。
何でそんなに映画を見まくっていたかというと、映画を撮りまくっていたからだ。
このシーンを撮るためには、どうすればいいんだろう?
脚本を書きていると、どうしてもネタが無くなってくる。
ネタがなくなるたびに、インプットが足りないと思って、浴びるほど映画を見まくっていたのだ。
TSUTAYAにある洋画の「あ行からわ行」まで全て見たんじゃないかというくらい見ていた。
おかげでTSUTAYAから年賀状が届いてしまった。
学生時代に映画を見過ぎたせいで、今TSUTAYAに行っても、見るものがなくて困っている。
1940年代から1950年代の白黒の映画もほとんど見た。
ヒッチコック、デビット・リーン、黒澤明、オーソン・ウェルズ、フランソワ・トリュフォー、ルイ・マルなどなど、名だたる映画人の映画はほぼ全て見た。
洋画のほとんどを見て、結局、何が一番面白かったのか?
そういう質問を聞かれるとどうしても戸惑ってしまうのだ。
年間350本以上映画を見てきて、私が一番面白いと思った映画。
それは……
「ジュラシック・パーク」だった。
あまりにも王道すぎて、いうのが恥ずかしくなるのだ。
映画が好きな人があつまると、どうしても映画のうんちくが言いたくなるものだ。
「何の映画が好きなんですか?」
と質問されると、映画好きの人はたいてい……
「スタンリー・キューブリックです」
「フランソワ・トリュフォーですかね」
など、ちょっと映画通でマニアックなものを言いたくなる。
私も「何の映画が好きなんですか?」と質問されるたびに、
「実は、ヒッチコックの裏窓が好きでして……」
などと、王道ではなく、あえて通な人が知ってそうなマニアックな映画を言って、
映画通であることを自慢するようなことを言っていた。
しかし、マニアックだ。
彼らが活躍したのは60年代で、その当時のカラーフィルムは今見るとどうしても質が劣り、映画にあまり興味がない人が見ても、面白いと思うかどうか微妙かもしれない。
1950年代から1960年代の古い映画をデジタルで育った私たちが見ると、どうしても質が劣っているように感じ、特撮シーンなど、ちゃっちく見えてしまうのだ。
学生時代に死ぬほど映画を見まくっていた私は、2000年代の映画から1940年代の映画まで、ほぼ満遍なく見ていたつもりだ。
古い映画を見ると、どうしても時代の違いからかストーリーについていけなくなり、途中で飽きてしまう映画もあった。
古典的な名作と言われるものでも今見ると古かったりする。
しかし、ある人の映画だけは何度見ても、いつの時代の人が見ても面白いと思うのだと思う。
それは、スティーブン・スピルバーグだった。
彼の映画はたいていでっかい怪獣が追いかけてくるシーンが多い。
「ジュラシック・パーク」も然り、「激突」や「ジョーズ」もそうだ。
怪物に襲われる映画は古今東西、言語の違いがあれど、どんな人でも理解できる物語が備わっていると思う。
私は何度「ジュラシック・パーク」を見ても、やっぱり面白いなと思ってしまうのだ。
しかし、あまりにも王道すぎて
「一番好きな映画は何ですか?」と聞かれるたびに、
「アラビアのロレンスですかね……」
とちょっと、マニアックなことを言って、ひけらかしている自分がいた。
言えない……
浴びるように映画を見続けて、一番面白いと思った映画が「ジュラシック・パーク」だなんて言えない……
しかし、とあるライティング教室で文章を書く極意を学び、こうして毎日書く習慣をつけていると、やはり王道のものを作れる人はすごいなと思うようになり始めた。
文章もマニアックな書き方ではなく、誰でも普遍的に理解できるように書ける人が一番すごいのだと思う。
ベストセラー作家の東野圭吾さんなんて、安易で平凡な文体しか使っていない。
頭がいい人向けの文章を書いているわけではないのだ。
誰でも多くの人の心に届くように、あえてわかりやすい文体で書いているのだと思う。
実際に、自分も文章を書き始めて、誰でも普遍的に共感できるような文章を書こうとするのは難しいと痛烈に感じるようになり始めた。
自分が面白いと思うものでも、他人からしたらどこが面白いのかわからない
ということはよくあるものだ。
毎日、ブログを書くようになってから、そのことが痛いほど感じるようになった。
やっぱり、王道だけど、王道を作り続けられるクリエイターの方が一番すごいと思う。
どうやったら普遍的に人に共感されるような文章が書けるようになるのか?
そういったことをこれからも研究していくしかないのだろう。
やはり、王道だけど王道を貫き通せる人はすごい。
「好きな映画は何ですか?」という質問に対し
「ジュラシック・パークですかね」
と自信を持って言えるようになれたらと思う。
もし、書くことに悩む人がいたら、あるいは写真家ソール・ライター展が効くかもしれない
「人と違うことをしなきゃ」
大学生の頃の私はそう雁字搦めになっていた。
個性的な自分でありたい。
人と違うことがしたい。
そんな思いが私を突き動かしていたのだ。
小学校からずっと、クラスでは馴染めなく、常に落ちこぼれだった私は、大学に入ってからずっと個性というものを追い求めていたと思う。
個性的をもっと探さなきゃ。
人と違ってクリエイティブな人間でありたい。
そう思っていたのだ。
とあるライティングゼミに通い始め、こうして毎日何かしら書くという習慣をつけてきたのだが、どうしてもライティングにおいても、その個性で悩んでいる自分がいた。
やはりものすごい面白い記事を書く人は、個性の塊みたいな人だ。
個性的でなおかつ生き方がものすごく面白い。
そんな人を見ていると、個性もなく、会った人から顔すら覚えられない私は、強烈な劣等感を感じるようになってしまった。
何も持っていない自分が書く意味なんてあるのか?
よく考えれば、個性というものは私が長年、抱えていた問題の一つだ。
人と違うことがしたい一心で、10リットルの血糊をばら撒きながら自主映画を作ったり、京都の山奥でなぜかお坊さんになる修行をしてきたり……
人と違うことをしたいという一心で空回りしてきたと思う。
もっと個性的な自分でありたい。
そんな思いが私を突き動かし、そして、ずっと個性という呪縛に囚われてしまったのだ。
「どうしてそんなに面白い文章を書けるんですか?」
いつもハイパーバズを引き起こせているWebライターさんに私はそうたずねてみたことがあった。
人一倍書いていたつもりだが、どうしたら人を魅了するようなコンテンツが書けるようになるのか? そう私は悩んでいたのだ。
その人はこう答えた。
「それは、生き方じゃないですかね」
私はハッとした。
やはり、生き方が面白い人の書く文章は面白いのだ。
私のように生き方がつまらない人間が書く文章はつまらないのだ。
私は平凡な自分に嫌気がさし、一時期やたらと海外を放浪していた時期があった。
就活が終わり、学生生活最後の休みを利用して、同級生は皆ヨーロッパやニューヨークに卒業旅行に出ている傍ら、私はなぜか刺激を追い求め、一人でインドに飛び立っていた。
人と違うことがしたい一心で、会社も全てやめて、バックパック一つで東南アジアをぐるっと一周したりしていた。
常に人と違った生き方というものを追い求めていたのだと思う。
しかし、私のような凡人が外にばかり刺激を追い求めても、得られるものは大して多くはなかった。
「君、何しに海外に行っていたの?」
仕事を辞め、ノイローゼ状態の時、アルバイト先の店長にそう言われたこともあった。
一体自分は何をしていたのか……
面白い生き方って一体何なのか?
個性って一体何なのか?
どうしたら面白いコンテンツが作れるようになるのか?
そんな悩みを私は常に抱えていた。
やはり、生き方が平凡な私が書く文章なんてつまらないんだ。
もっと外に刺激を求めたなきゃと思い、個性という名の呪縛に囚われ、苦しんでいた。
そんな時、同僚にとある写真家の展示会に誘われた。
ソール・ライター……
ニューヨークが生んだ伝説のカメラマンの写真展だった。
名前は特に聞いたことがなかったが、雨の中パラソルをさし、立っている女性の有名な写真は知っていた。
写真好きの人には、名前ぐらいは知っているようなマニアックな写真家だ。
50年代から60年代にかけて、ファッション業界のカメラマンとして活躍し、その後、隠遁生活に入るも、毎日のように写真を撮り続け、アトリエで絵を描き続けた偉大な芸術家の一人だ。
亡くなった後に、アトリエに保管されてあった大量の未現像のフィルムなども展示される大々的な写真展だという。
私はカメラ好きの会社の同僚に誘われ、そのソール・ライター展に行ってみることにした。
展示会の中はカメラ好きの人で溢れかえっていた。
やはり、伝説の写真家だ。
ありとあらゆる年代層の人がソール・ライター展に集まっていた。
私は展示会に飾られている写真を見ていくうちに、度肝抜かれてしまった。
なんでこんなに平凡な日常をきっちりとカメラに収められるのだろう……
そこで展示されていたのは、ほとんど彼の自宅周辺で撮られた写真だった。
ソール・ライターは23歳の時にニョーヨークに出てきて、セントラル・パーク横のイースト・ヴィレッジに約60年間過ごしていたという。
ほとんどの生涯をイースト・ヴィレッジで過ごしていたのだ。
彼の作品のほとんどが、自宅周辺で撮られた写真だ。
どれも雨の中で傘をさす人や、タクシーの中でタバコを吸う人など、ありふれた平凡なシーンを端的に捉え、カメラのシャッターを押していた。
私はその写真展を回っているうちに、感化されている自分に気がついた。
この人のように、ありふれた日常をしっかりと捉え、形にできるようになりたい。
そんなことを思ったのだ。
展示会の壁にはソール・ライター自身が書いた言葉が書かれてあった。
やはり、写真を撮る人は文章を書くのもうまい。
ありふれた日常を切り取り、写真に捉えるということは、ライティングに似ていると思う。誰もが見逃すような場面も、きちんと感受性のアンテナを張って、切り取り、コンテンツとしてまとめていく。
写真を撮ることも文章を書くことも似ているような気がする。
私はソール・ライターが書いた文章の一節を読んで、とても心動かされてしまった。
私がずっと、書くことで悩んでいたことの答えがそこには書かれたあったのだ。
「美しいものを見出すには、遠い夢の国に行く必要はない。それは身近な日常にある」
私はずっと刺激を追い求め、海外に飛んだり、人と違うことを常に追い求めていたと思う。
面白い文章を書くようになるには、人と違った個性的なことをしなきゃと思っていた。
しかし、面白いものを身近な日常に転がっているのかもしれない。
生涯、写真を撮り続けたソール・ライターはひたすら普通の人たちが見過ごしてしまうような、日常の中に眠る美しい瞬間を捉え続けていた。
身近に眠る些細な幸せを捉え続けていたからこそ、彼の写真は今なお、多くの人の心に届くのだと思う。
私はソール・ライターの写真展を回っているうちに、個性という名の呪いに縛られていた自分が少し楽になった気がした。
個性を追い求め、外に刺激を求めるのではなく、ありふれた日常をもっと大切にしたい。
ソール・ライターのように、ありふれた日常を切り取り、コンテンツを作るようになりたい。
そんなことを思った。
逆上がりのコツと夢を追いかけること
「もう少しなんだけどね。9割は回れているよ」
小学生の頃、学校の先生にワンツーマンで逆上がりの練習をしている時、何度もそう言われながら練習をしたのを覚えている。
私はとにかく運動が苦手な子供だった。
小学校3年生にして逆上がりができなかったのだ。
今思い返せば、どこの小学校のクラス内にも発生するスクールカースト(小学校の間はだいぶ可愛いもの)の中で、ランキングされていくのは、この逆上がりができるか? できないか? 問題が大きく関わってくると思う。
クラスの中でもいつも中心的なメンバーは、みんな意気揚々と逆上がりができていた。
体育の授業も中心になって、クラスメイトを動かしていたと思う。
それに比べ、いつもクラスの隅っこでうずくまり、小学生の頃から何だかよくわからない映画を見ていた私のような陰キャラな生徒はどうなのか?
たいていは逆上がりができなかった。
体育の授業で逆上がりとなると、できる生徒とできない生徒で授業の質も変わってくる。
逆上がりがすんなりとできる生徒は、45分の授業中、ずっと自由行動みたいになって遊ぶことができていた。
私のように逆上がりができないグールプは、鬼の形相を持った先生からみっちり逆上がりの講習を受けることになるのだ。
「なんで最後の最後まで回転が持たないんだ……最初の地面を蹴り上げる力が足りてないんだよ」
私は(今でもそうだが)逆上がりの原理がさっぱりよくわからなかった。
地面を蹴り上げて、体を180度回転させ、ぐるっと回る際、どこに力を入れて回ればいいのかよくわからなかったのだ。
先生は「宙に向かって足を蹴り上げろ」とか言っていたが、原理がさっぱりわからない。
「お前は来週もみっちり練習だ」
鬼の形相を持った先生にそう言われ、私はだいぶ落ち込んだのを覚えている。
クラスメイトの9割以上が3週間の間で逆上がりができるようになっていたのだ。
私は今だ、逆上がりができなかった。
多分、その先生も小学生の間に、逆上がりだろうと挫折させてしまう経験をさせるのは良くないと思って、私をみっちり特訓させようとしてくれたのだろう。
その時は、先生の愛情も何も考えず、私はただ苦痛を感じながら体育の授業を受けていた。
「逆上がりができないんだけど、教えてくれない?」
休日に暇そうにしていた父親を連れて、私は夕方の公園でみっちり逆上がりの稽古をしてもらうことにした。
「何で9割は回れているのに、最後まで回転しないんだろう」
父親にも同じようなことを言われた。
50回以上練習していると、私の手に血豆ができてきた。
鉄棒をつかむ時の摩擦で皮膚が血でにじんできたのだ。
それでも痛みに耐えながらも私は逆上がりの練習を続けた。
続けてみると、徐々にだが逆上がりのコツというものがわかってきたのだ。
やはり最初の一歩、地面を蹴り上げる力がいかに大きいかというものが重要だと感覚的につかめてきたのだ。
そして、蹴り上げた時、頭をぐるっと地面の方に向け、頭の回転をも利用してぐるっと回る。そして、なるべく遠心力を最大限に活かすため、腕はしっかりと曲げていなければならない。
私は地面を蹴り上げる力が弱かったのではなく、自分の体重を支える腕力が弱かったのだ。
回転している間、腕で体重を支えきれなく、伸ばしてしまう癖があるため、失速し、いつも90パーセントぐらいの逆上がりになってしまうのだ。
私は1ヶ月ほどかけて、父親を連れて逆上がりの特訓をしていたと思う。
今思えば、どんだけ運動音痴だよ! と思う。
しかし、毎日のように逆上がりの練習を続けているとなんだかコツをつかめてきたのだ。
約1ヶ月後、体育の時間に先生に逆上がりの特訓の成果を見せる機会があった。
私は緊張しながらも思いっきり地面を蹴って、ぐるっと自分の体を回転させた。
腕は曲げるな!
そう自分に言い聞かせながら、ぐるっと回った。
「できたじゃないか!」
ニコッと微笑みながら先生は私にそう語りかけた。
私は逆上がりができた自分を信じられなく、呆然と立ちすくしていたと思う。
できたんだ。
逆上がりができたんだ!
クラスメイトのほとんどは逆上がりなど屁でもないかもしれないが、自分にとっては大きな一歩だった気がする。
逆上がりができたということは、私にとって大きな出来事だったのだ。
たまに家の近所の公園を通りかかる時、今でも私はあの逆上がりの特訓に明け暮れた日々のことを思い出す。
あの時、私は何かに夢中になっていたのか……
どこか感慨にふけってしまうのだ。
最近、ライターや小説家を目指しているいろんな人と出会う機会があったが、夢に向かってがむしゃらに努力している人を見ると、どうしても逆上がりのことを考えてしまう自分がいる。
もしかしたら、夢を追いかけることは逆上がりに似ているのかもしれない。
私は一度、夢を追いかけて制作会社に飛び込んだ。
そして、失敗した。
「これは何かの縁だ。自分の夢に向かって飛び込むしかない」
その頃、私は本気で映画監督になりたいと思い、映像の世界に飛び込んで行ったのだ。
テレビの世界というとブラックでハードなイメージがあると思うが、本当にそのままだ。
私は連日朝4時まで続く、徹夜の作業にノイローゼ状態になり、結局会社を辞めてしまう。
夢に向かって飛び出す勇気はあった。
就職で内定を獲得した制作会社に、他の選考を蹴って、飛び出していくことはできた。
その時、私は世間知らずということもあったが、夢に向かって飛び出したのだ。
しかし、失敗したのだ。
それは逆上がりと一緒で、ぐるっと地面を蹴り上げた後、自分の体重を支えらるだけの腕力となるメンタル力がなかったからだと思う。
自分の好きなことをしようとすると、必ずと言っていいほど、困難に直面すると思う。
会社の上司に怒られたり、理不尽な要求に答えなけらばならない機会も多い。
自分のような才能のない人間が言うのも恐縮だが、小説家の場合だって、自分の子供のように大切に書き上げた小説を、編集者やいろんな方にボロくそに言われることになるのだ。
出版社の方もビジネスで本を出している。
だから、作家性などは二の次で、一番大切なことは売れる本かどうかだ。
夢に向かって、その道に進むと、確実にいばらの道を突き進むことになる。
いろんな人に馬鹿にされ、怒鳴られながらも自分の夢を追いかけていくことになるのだと思う。どんな困難に直面しても、自分の体重を支えるだけの腕力とメンタル力を持ってないといけないのだ。
私はその自分の体と心を支えるだけの腕力となるメンタルがなかったのだ。
途中で失速し、結局逃げ出してしまった私は、自分の夢を追いかけて、がむしゃらに小説などを書いている人を見ると、どうしても昔の自分を思い出してしまう。
思いっきり地面を蹴り上げ、自分の体重を支えるだけのメンタル力が、あのころの自分にはなかった……
現状を打破し、飛び出すこと自体も相当、勇気がいることだ。
だけど、その先にはもっと過酷なものが横たわっている。
一度、私は身に染みて体感し、そして挫折した。
だけど、私はやはり、物を作る人でありたいのだと思う。
普通に仕事していても頭の中で言葉や映像が鳴り止まなくなり、どこかで感情を吐き出さないといけない体質らしいのだ。
夢を追いかけている人を見ると私はどうしても馬鹿にすることはできない。
「どうせなれるわけがない。好きなことで食っていけない」
そんな風に言うのは、自分にはできない。
何かなりたい自分がいるのに、社会や人の目線が気になって一歩踏み出せないのは自分も同じだ。
しかし、私はどうしてももう一度、夢に向かって挑戦してみたいと思う。
だから、書き続けるしかないのだろう。
東京でオリンピックが開かれるまでに、今度こそ、ぐるっと逆上がりを決められるようになりたい。