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ライティング・ハイ

年間350本以上映画を見た経験を活かしてブログを更新

常にネガティブ思考で死にたがっていた私が見つけた、唯一の生きる術

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「何で世界はこんなにも汚いんだ」

私は常にそんなことを思っていた。

小学生の頃から大のネガティブ思考で、クラスの隅っこにいるような暗い生徒だったと思う。ネガティブである方が生きるのが楽だと思っていた節もあった。

 

ものごとポジティブに考えていると、現実にうまくいかなかった時に、相当へこむ。

ならば、最初からネガティブに考えていた方が、うまくいかなかった時の精神的ダメージも減らすことができる。

 

常にネガティブに世界を捉えることで、自分が傷つくのを拒んでいたのだと思う。

高校受験の時もそうだった。

最初からこんな学校に受かるわけないと思い、受験して、もし万が一落ちていた時も自分が傷つくのを拒んでいたのだ。

マイナス思考であればあるほど、自分が傷つかない。

 

そんな風に自分を傷つけない防衛手段の一環として、ものごとをマイナスで捉える癖がついてしまったのだ。

そのせいか、普通に暮らしていてもマイナスな出来事しか頭に入ってこなくなっていた。

街を歩いても、世の中の汚い部分などに目がいって、常に生きづらさを感じていた。

 

何でこうも世界は汚いんだ……

そんなことを幼少期から常に思っていた。

クラスの中心的な明るい性格の人たちを見て、私は心のそこから羨ましく思っていた。

周りを明るくする太陽のような存在。そんな彼らが羨ましかったのだ。

私は常にネガティブオーラを発し、周囲を暗い気持ちにさせる存在のように思えていた。

何で自分っていつもこうなのだろう。

なぜ、明るく振る舞えないのだろう。

 

中学の頃になると、自分の感覚が研ぎ澄まされ、世の中の情報に翻弄されて身動きが取れなくなってしまった。

数週間家に引きこもり、じっとしていたのだ。

世の中の情報を見たくない。人を見たくない。

そんなことを思っていた。

自ら真っ暗闇の中に、閉じこもることを選んだのだ。

人と接していると、相手が自分のことをどう感じているのかが異常に気になってしまい、他者とのコミュニケーションもうまく取れなくなってしまった。

 

私はそんな風にして自分で作りあげた殻の中に閉じこもっていのだ。

家から出て、世の中を見渡しても、人間の汚い部分だけが目に入ってきた。

電車に乗っても、怒鳴り散らしている客や、今にも死にそうな目つきでホームを見つめている人が目に映ってきた。

私は当時、本当に今にも死にそうだったが、なんとか24歳まで生きてきた気がする。

 

私のネガティブオーラを発している体が致命的になったのは就職活動の時だった。

面接ではみんな同じスーツを着て、同じような顔つきで、同じような話をしていた。

そんな中で内定を出す人と、落とす人を分ける差は、体から発せられる雰囲気だと思う。

常にポジティブ思考で周囲を明るくさせるような人たちは、たった5分間話しただけでも面接官は「あっ、こいつ使えそうだな。職場を明るくしてくれそうだな」と思うものだ。

 

私のようなネガティブ思考の人はやはり就活ではとても苦労した。

ほとんどの企業が落ちた。

社会に出てからも常に自分は必要とされていないような気がしていて、浮足立っていたと思う。何をやってもうまくいかない。仕事ができない。

 

私は限界に来ていた。

結局、何か救いを求めるかのようにアジアを放浪してみたりした。

沢木耕太郎の「深夜特急」の世界に憧れてバックパック一つで海外を放浪してみた。

 

海外には自分のような日本にどこか生きづらさを抱える旅人がいっぱいいた。

大概が30歳手前で会社を辞め、世界一周の旅に出た人たちだった。

 

そんな彼らは生き生きとしていた。

 

足に刺青を入れている、とある旅人はこう言っていた。

「私は足に刺青を入れている。ただ、自分らしくいたかっただけだ。だけど、日本の社会では刺青を入れている自分のような人間を受け入れてくれる場所はなかった」

 

足に刺青があると言う理由だけで、就職するのも苦労して彼は結局海外に逃げてきたという。タイやベトナムでは刺青があるだけでその人自身を判断することはない。

彼は本当の自由を手に入れたようで生き生きとしていた。

 

大学を休学して世界一周の旅に出ている人もいた。

彼はとても生き生きと英語での会話を楽しんでいた。

 

私はそんな日本に居場所を見いだせなかった旅人の中なら居心地の良さを感じられると思っていた。

しかし、そんなことはなかった。

私はどこか海外に行っても他者とうまくコミュニケーションを取れない自分に苦しんでいたと思う。ゲストハウスでも、同じドミトリー仲間と話をせず、じっと自分の殻にこもっていたのだ。

どうしても外人ともうまくしゃべることができなかった。

英語が苦手だということもあったが、笑顔でにこやかにコミュニケーションをとることができなかったのだ。

 

結局、海外でも自分の居場所を見いだせずに日本に帰ってきた。

 

アルバイト先を転々としていた。常に暗い自分に嫌気がさして店長は

「君は何しに海外まで行ってきたの?」

と言われたりもした。

 

私も何しに行っていたんだろう……と思ってしまった。

 

旅は麻薬に近いと思う。旅している時は自分がかっこいいと思ってしまうのだ。

新しい刺激を求めて海外に行くのはいいが、海外に救いを求めに行っても自分自身は何も変わらないんだなということがわかった。

 

私は海外に行っても居場所を見いだせなかった。

どこに向かって歩けばいいのかわからなかったのだ。

 

そんな時に、ライティングと出会った。

とあるライティング教室にたどり着き、きちんとライティングについて学んでいった。

 

昔から自主映画などを作っていたので、脚本の書き方などには自信があった。

しかし、プロのライターや小説家を目指している人たちの間で書いていると、自分の文章の拙さを痛感した。

ちくしょうを思って、私は毎週のように記事を書いて投稿していった。

 

書いて書いて書きまくっているうちに、書くことが好きな自分に気づいた。

あれ? なんでこんなに書いているのだろう……

 

心のバケツの中に溢れかえっていた感情がどっと溢れ出るように私は書いていた。

言葉があふれ出て止まらなくなったのだ。

 

そして、書いているうちに以前ほど、世界を悲観的に捉えてない自分に気づいた。

毎週のように記事を書いていると、嫌でも身の回りからネタを探すようになる。

常に世の中の隅々にアンテナを張っているので、自分が見たい情報だけが頭に入ってくるのだ。

 

私は記事を書くとき、人様に見せるものだからきちんとポジティブに終わらなきゃと思って書いていた。

すると、不思議と世の中のポジティブな部分だけが頭に入ってくるようになったのだ。

 

そして、思った。

世界をどう切り取るかは自分自身の問題に過ぎないんだなと。

 

その人自身がマイナス思考で、常に居心地の悪さを感じていれば、社会もそう見えてくるだけなのだ。

日本社会はつまらないと思っている人にとって、日本の社会はそういうものなのだ。

 

いつだって世の中と自分との関係を作るのは自分自身なのだと思う。

 

世の中をネガティブに切り取れば、ネガティブに見えるし、ポジティブに切り取ればポジティブに見えてくる。

ただ、それだけなのだ。

 

ライティングの魅力に気づいた私は、以前ほど世の中を悲観的に見ていないことに気づけた。

これからも私は、社会の中でがむしゃらに生きていくためにも、自分の感情を書くということを大切にしなければいけない。

そんなことを思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

吉祥寺で見かけたインド・バラナシの光景

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「あ!」

それは突然だった。

 

私が吉祥寺に買い物に出た帰りに、自転車で道路を走っていると、道路の隅っこに猫が転がっているのを見かけたのだ。

 

交通量が多い道路だ。

たぶん、猫は道路に飛び出してしまい、車にひかれたのだろう。

運転手も猫をひいたことに気づいていないのかもしれない。

 

交通量が多い道路のため、次から次に来る車は猫の死骸を避けるようにして走っていた。

道路の隅っこに死んでいる猫を見て見ぬ振りをして、それでも日常が進んで行く。

そんな光景に私は憤りを感じてしまった。

 

なんでみんな猫を見て見ぬ振りできるのだろう。

 

たぶん、警察に通報すると色々手続き等があって、面倒なことに巻き込まれるのが嫌なのだろう。

だけど、明らかに30分以上猫の死骸が道の真ん中で放置されているのだ。

 

私は人々の無関心さに腹が立ったが、自分はどうなのかと思ってしまった。

自分も面倒に巻き込まれるのが嫌だからという理由で、つい猫の姿を見て見ぬ振りしそうになったのだ。

身近に潜む死に対し、自分も無関心を装っていたのだ。

 

私はそんな自分を感じるとともに、道路の真ん中で死があるのに、その周辺では当たり前のように日常が進んで行く光景を見て、あの強烈な体験を思い出していた。

 

自分の血肉となっているあの光景を……

 

 

「なんだこの国は」

私はその時、インドに降りたっていた。

周囲から発せられる異常な熱気と暑さに滅入ってしまい、私は空港から出た瞬間こう思った。

 

「なんでこんなところに来てしまったのだろう?」

一人でポツンとデリーの空港で立っていると客引きが声をかけてくる。

 

「俺のタクシーに乗っていけ」

「お前ジャパニーズか? 俺はジャパニーズが大好きなんだよ!」

 

私はデリーの空港からタクシーに乗ると、大変な目にあうと聞いていたので、すべての客引きを無視して、手配したツアー会社の人についていった。

 

空港から出た瞬間、生卵が腐ったような臭いに私は鼻を塞いでしまった。

なんだこの国は?

どうなってんだ?

 

真っ暗闇の通路を進んで行くとあたりには野良犬が所々で寝ていて、つい踏みそうになってしまった。

明らかに狂犬病を持っている野良犬だ。

 

よくもこんな環境で暮らしていけるな……

正直、そう思ってしまった。

 

タクシーに乗って、デリーの中心街へ向かっていると、再び強烈な光景を見てしまう。

信号待ちのたびに、ボロボロの服を着た物乞いたちがやってきてのだ。

物乞いも数も一人や二人じゃない。

 

すべての信号で待機しているくらいの物乞いの数なのだ。

そこにはボロボロの服を着ながら、懸命に慈悲を求める少女と子供達の姿があった。

ここまで貧富の差があるのか……

と私は呆然としてしまった。

 

私のように空港からタクシーに乗って、都市部に向かう人たちは豊かな先進国から来た旅行者がほとんどだった。

そんな旅行者は皆、物乞いを見て見ぬ振りをしていた。

 

私はどこかこの子達を上から目線で哀れんでいる自分を感じた。

たまたま私は先進国で生まれ育ち、たまたま子供達はインドの貧しい家庭で生まれ育ったのだ。

先進国から旅行目的で来た私は、インドの営みを見てとても罪悪感を感じてしまった。

上から目線で彼らを見ていることに後ろめたさを感じたのだ。

 

私がインドに行こうと思った理由。

それは就活をしている時だった。

私が就活をしていて痛感したことは、物事はある程度なるようにしかならない……ということだった。

 

同じ大学を出ていても、あっという間に大手から内定をもらえる人もいれば、何度受けても内定をもらえない人がいる。

 

面接官がこの人は何となく使えそうだな。

この人は何となくうちの社風にあっているなど……

ほとんど何となくで決まっていく。

 

私はその頃、マスコミに受かりたく死に物狂いで就活をしていたのだが、結果は惨敗。

内定が出るあの人達と、自分の違いは一体何なのかと思って苦しんでいた。

 

そんな時ふと、

物事はある程度なるようにしかならないんだなと思ったのだ。

 

諦めということではないが、努力したら全員が売れっ子ミュージシャンになれるわけではないし、全員が小説家になれる訳ではない。

 

今まで義務教育という社会に敷かれたレールの上を歩いてき、皆と同じように過ごしていた私には衝撃的な体験だった。

 

大手企業に入って年収が1000万を超える人と中小企業で年収が300万の人とに分かれていく光景を見て、私は身動きが取れなくなってしまっていたのだ。

 

就活は私にとって、なるようにしかならない物事もこの世にはあるんだなと痛感した出来事でもあった。

 

そんな時、ふとインドの人たちは何を感じ生きているのか気になったのだ。

カーストという厳重な身分差別が浸透しているインドでは今だに貧富の差がある。

そんなどうにもならない現実を目の前にして、ガンジス川沿いの人たちは何を思って生きているのか? と気になったのだ。

 

 

 

私はデリーとアグーラーで数日滞在したのちに、ヒンズー教の聖地バラナシに向かうことにした。

バラナシで数泊し、最終日にガンジス川沿いで毎晩行われているプージャーと言われる礼拝を見てみようと思ったのだ。

 

暗くなってからガンジス川沿いのガートに行くと、そこには観光客と物乞いでひしめき合っていた。

ガンジス川に祈りを捧げるプージャーが終わると、どっと観光客がホテルに帰りだした。

それと同時に物乞いがガート沿いに一気に駆け込んできた。

 

「マネー! マネー! マネー!」

どこに行っても掛け声が聞こえて来る。

 

そこには両足がないまま生まれ、一生地面に這いつくばって生きているおじいさんや明らかに発達障害がある子供を抱きかかえながら慈悲を求めるボロボロの母親などが私に声をかけてきた。

皆ただ生きることに必死なのだと思う。

 

私はインドの人たちが抱えている身近にある死というのを感じた。

輪廻転生を信じる人々は、死そのものにあまり恐怖を感じていないという。

死と生きることが内包している感じだ。

 

しかし、それでも死が身近に迫っている人たちを見て、私はどうしても無関心ではいられなくなってしまった。

どうにもならない現実を目の前にして、日々懸命に生きている彼らの姿を見て、哀れんだ目で見ることができなかった。

 

 

そんなインドで見た光景を、遠く日本の道路でうずくまっている猫の死骸を見ながら思い出した。

周囲は身近に起こった猫の死というものに無関心を装っている。

ごく当たり前のように日常が進んでいっている。

 

私も無関心を装って、そのまま通り過ぎようかと思った。

しかし、インドで見たあの光景が脳裏に焼き付いていて、身近にある死というものに対し、無関心ではいられなかった。

 

死んだ猫を無関心でいる日本の人々もどうなのか?

私はどうしても無関心を装って、通り過ぎることができなかった。

 

どうにもならない現実を目の前にしても、日々懸命に生きている人たちがいる。

物事はある程度なるようにしかならないこともある。

しかし、もがくのが大切なのではないか?

そんなことをインドでは感じたのだ。

 

きっとあの猫ももがきながら、東京という無機質なコンクリートジャングルの中で生きてきたのだろう。

 

私は精一杯生きた猫を葬るために、近くにあった交番に駆け込んで、警察の方に対応を頼むことにした。

 

どうしても見て見ぬ振りをして、通り過ぎることができなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの日、私が見たのはエガちゃんの姿だった

 

あの日、東京が全停止した日。

 

私は公民館の自習室で勉強をしていた。

 

前日に国立大学試験の結果発表があり、思っていた通りに落ちていて、一年間の浪人生活が決定していた。

私の気分はどん底だった。

 

あ、やっぱり落ちた。

勉強へのモチベーションもほとんどなかった。

 

現役の頃、私は焦っていた。

将来、何がしたいのか全くわからなかったのだ。

特にやりたいこともないのに、何だかみんながちょっとでも偏差値が上の大学を目指して勉強しているから自分もひとまず勉強しているにすぎなかった。

 

高学歴になれば人生勝ち組だ。

どこの大学に入るかで人生変わってくる。

今思えばどこの誰がこんなこと言いだしたかわからないが、そんな感じの風潮があって、みんな必死こいえ少しでも偏差値の上の大学を目指して勉強していった。

 

私はといえば、先行きの見えない未来にモチベーションが上がらず、興味があった映画作りができるという理由だけで美大受験を考えていたほどだった。

ずっと、進路先があやふやでグラグラしていたのだ。

 

美大は一般大学よりも倍以上の学費がかかるため、親の都合もあって諦めることになったが、私は一般大学に向けて勉強をしていくモチベーションがなかった。

 

特に行きたい大学もないしな。

よくみんな行きたい大学もないのに勉強できるよな……

そんなことを思っていた。

 

案の定、高校3年生の終わりまで進路先で悩み、軸がグラグラだった私はセンター試験でもボロボロだった。

 

そのまま一年間の浪人生活を送ることが決定した矢先、あの出来事が起こったのだ。

 

今でも覚えている。

自習室で勉強していた時、異常なほどにビルが揺れたことを。

その場にいた全員がパニックになり、机の下に入っていった。

 

自分が体験した中では一番の揺れだった。

1分近く揺れが続いたと思う。

公民館のビルは大パニックだった。

 

「ひとまず、皆さん外に避難してください」

私は係員に連れられ、ビルの一階に向けて、非常階段を降りていった。

階段の途中で、壁に亀裂が入っている箇所を見た。

 

震度6はなかったか?」

「さっきニュース見たけど、東京は震度5だってよ。震源地は東北らしい」

そんな会話が聞こえてきた。

 

東京でもあんなに揺れたのに、震源地は東北なのか……

現地はどんだけ揺れたんだ。

 

私は公民館の地下に止めていた自転車に乗って、家に帰ることにした。

携帯電話には親戚中からメールが飛んできた。

「東京は大丈夫だった?」

「今どこにいるの?」

 

私はひとまず、返信するも電波がパンクしていてメールが送れなかった。

 

自転車で家に向かっている途中も余震にあった。

電信柱がグラグラ揺れていたのだ。

 

私はなんとかして家に帰ると、家の中の本棚や棚が倒れていて、家の中がぐしゃぐしゃになっていた。

何が起こったのか私は一瞬わからなかった。

 

ひとまず、テレビをつけてみると、東北でとにかく大きな地震があったことがわかった。

そして、海沿いの町中が津波に飲み込まれた姿を繰り返し放送していた。

 

こんなことが現実に起こるなんて……

私は呆然としながらテレビを見ていたと思う。

 

東京のほとんどの電車も全停止して、帰宅難民で溢れかえる中、私はテレビにかじりついて見ていたと思う。

 

近くにある甲州街道ぞいを見てみると、新宿から歩いてきたであろうサラリーマンでごったがえしていた。

 

私は悲しい出来事を繰り返し放送しているテレビに嫌気がさして、勉強をしていたと思う。

 

なんで日本は悲しい出来事があると、みんなで悲しみましょうという風潮があるのか……そういう時こそバラエティ番組が必要なのに、どこのテレビ局も批判を恐れて放送していたなかった。

 

私は特に目標の大学がなかったが、辛い現実から逃げるかのように勉強していった。

 

私はそんな風にして震災で日本中が大パニックに陥っている時に、浪人時代を経験した。

 

特にやりたいことはなかった。

行きたい大学は見つからなかった。

 

だけど、私は悲しみに溢れているテレビから目を背ける意味も込めて勉強に励んでいたと思う。

 

私の浪人時代の記憶は苦しんでいた記憶しかない。

ただでさえ、受験に失敗してへこんでいるのに、テレビをつけても常に悲しいニュースが流れているのだ。

 

そんな時だった。エガちゃんのニュースが流れたのが……

 

「何やらエガちゃんが東北までトラックで走り回って、避難物資を届けているらしい」

そんなニュースが流れた。

 

は? エガちゃんだって。

私は驚いた。

エガちゃんといえば、もちろん江頭2時50分さんだ。破天荒で無茶苦茶な芸人で知られている。

 

どうやら放射能の危険で騒がれている矢先、危険も顧みず、トラックいっぱいの避難物資を借金をしてまでも手に入れて、東北の被災地まで届けているらしいのだ。

 

現地でエガちゃんの姿を見た人が、ツイッターでつぶらいてあっという間にニュースになっていた。

自分の命の危険も顧みず、被災した人たちを助けに行った姿に多くの人が賞賛をあげていた。

私もなんかかっこいいと思ってしまった。

 

エガちゃんは昔から頑張っている人を見かけると、全力で応援したくなる癖があるらしい。オリンピックの時も、自腹で現地に飛び、全力で旗を振っている姿がカメラで抜かれて日本中に流れていた。

 

どうやら彼自身、悲惨な幼少期を過ごしていたらしく(テレビでは絶対言えないくらいの)その反動もあってあのエネルギーが生まれているという。

頑張っている人を見かけると何ふり構わず全力で応援したくなるのだ。

人のためになって全力で尽くすのだ。

 

彼のそんな人柄のためか、いくら下ネタを言って、バッシングを食らっても、彼はずっとテレビに必要とされるのだろう。

 

私はそんな風に人のために全力で尽くす姿を見て、自分が情けなくなってしまった。

 

所詮、自分は自分のことしか考えてなかったのだ。

行きたい大学が決まらなかったのも自分のことしか考えていないからかもしれない。

 

人間の記憶はうまいことできているので、辛い出来事があったらどんどん忘れていくようにできている。きっと、あの辛い出来事も風化していってしまうのかもしれない。

しかし、あの時、人のために全力で尽くした人の姿は、いつまでも人々の記憶に残るのだと思う。

 

私は震災の時、本当に精神的に滅入っていて、辛い出来事しか覚えてない。

しかし、なぜか東北で避難物資を届けて回ったエガちゃんのニュースだけは異常に頭にこびりついているのだ。

 

私もそんな風にして人のためを思って生きているのか?

人のためを思って文章を書けているのか?

 

そんなことをふと考えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画「ラ・ラ・ランド」を2回観て、野球選手のダルビッシュ投手の凄さを思い出した

映画

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私は音楽映画が苦手だった。

音楽にあまり興味がないということもあるが、映画の出来を曲でごまかしている感じがしていて、どうしても物語が頭の中に入ってこない。

 

ましてやミュージカル映画なんて、最も苦手なジャンルだ。

セリフを曲の中で表現するため、物語の展開についていけなくなるのだ。

ただでさえ、会話を聞き取る読解力が低い私にはミュージカル映画は苦痛の産物でしかなかった。

 

それなのに、私が大好きだった監督がミュージカルを撮るという。

「ミュージカルだけはやめてくれ!」

正直、そう思った。

 

監督の前作「セッション」は私が大好きな作品だった。

まるで格闘技のように展開されるこの音楽映画に私は興奮して見てしまったのだ。

ラスト14分間に奏でる教師と生徒の熱意がこもったドラムバトルを見て、呆然としたのを覚えている。

この映画を撮った監督は当時20代でハリウッド中では

「天才が出てきた!」と騒がれていたらしい。

 

そんな天才と称された監督が次はミュージカルに挑戦するという。

 

ミュージカルだけはまずいんじゃないか。

大丈夫なのか。

私はそう思っていた。

 

ハリウッド産のミュージカル映画に成功例がないのを私は知っていた。

今までに、天才級のクリエイターが幾度も挑戦しても、興行的に大失敗をしていたのがミュージカルというジャンルだったのだ。

 

ゴッドファーザー」を撮ったフランシス・フォード・コッポラ監督もミュージカル映画を撮って大失敗し、多額の借金をして映画が撮れなくなってしまっていた。

 

日本では最近「沈黙」で話題になったマーティン・スコセッシ監督も「ニューヨーク・ニューヨーク」というミュージカル映画を撮って大コケした過去を持っている。

 

興行的に大失敗する可能性が高いのがミュージカル映画なのだ。

 

そんな最も難しいとされているミュージカル映画に若き31歳の監督が挑戦するという。

アカデミー賞最有力候補になっているため、日本では早くから話題になっていた。

私は「セッション」の監督が撮った映画だということで、ミュージカル映画に苦手意識を持ちつつ、映画館に足を運んだ。

 

館内に入ると周囲が女性だらけだということに気づいた。

なんだかレディース・デイに「ゴーンガール」を見てしまった時のような居心地の悪さを感じつつ、私は予約した席についた。

 

映画が始まる。

 

オープニングからぶったまげた。

初っ端から全力で歌い出すのだ。

 

これ何人のエキストラを使ってんだ……

スクリーンの中ではハリウッドのクリエイター達が全力投球でぶつけてくる熱いものがあった。

映画全体もスクリーンに奥行きがあるなと思ったら、昔のハリウッド映画のフィルムサイズにわざわざ合わせて撮っているのだという。

だから通常の映画館より、スクリーンが幅広かった。

私は監督の映画への情熱を感じつつ、カラフルで彩られた「ラ・ラ・ランド」の世界を堪能していた。

 

それは夢を追いかけている人たちの物語だった。

「LA LA LAND」とはロサンゼルスに集まってくる「夢見がちな人」のことを指す用語だ。

ハリウッドに夢を見て、そして去っていった人たちの物語がそこにはあった。

私も夢見がちなところがあるので、この物語の主人公の境遇に共感してしまった部分があった。

私は映画の世界に夢中になってしまっていた。

 

ミュージカル映画が最も苦手な私がである。

もう物語の登場人物に感情移入してしまって、ミュージカルが苦手なことまで忘れてしまったのだ。

 

カラフルで彩られたこの世界から抜け出したくない。

そう思っていた。

 

そんな時ふと、あれ? 

と思ったシーンがあった。

 

なんでここだけ色が変わってんだ。

 

それは丘の上で二人がタップダンスをしているシーンだった。

夕焼けに彩られたロサンゼルスの夜景を背後に3分近くの長回しの中、タップダンスをするシーンがあるのだが、次のカットに変わる時、辺りの風景の色が突然少し変わったことに違和感を感じたのだ。

 

服装から壁紙まで、カラフルに彩られ、とことん色にこだわって作られた映画なのにである。あのカットだけ前後の色調に妙な変化があったのだ。

 

監督のミスかな。そう思った。

 

いや、そうじゃなかったらもしや。

あのシーンはもしかして……

 

私は映画を最後まで見ていくときもロサンゼルスの夜景を背後にタップダンスを決めるシーンが気になって仕方がなかった。

 

映画は後半になり、シリアスな展開になっていく。

そして、最後に二人が奏でるハーモニーを見て、これぞ映画だ! 

これが映画なんだ! と興奮しながら見てしまった。

 

映画評論家の町山智浩さんは「セッション」の時と同じくらいラストが凄いよと言っていたが、本当に凄かった。

なんという余韻が残る美しいラストシーンなんだろうか。

 

私はエンドロールを最後まで夢中になって見てしまった。

この世界から抜け出したくない。

そう思った。

 

結局、ミュージカル映画に苦手意識を持っていたのを忘れるくらい物語の展開が気になって見てしまったと思う。

映画館を出て、アドレナリンが落ち着いてくる頃になると、またあの疑問が浮かんできた。

 

あの丘のシーン……もしや。

あの夕暮れかかった夕焼けはもしかして。

 

あれだけ色彩にこだわった映画なのに、あるカットだけ前後に色に違和感があるのがどうしてもおかしかったのだ。

監督のミスとは思えなかったのだ。

 

私は数日後、もう一度映画を見てみることにした。

ワンカットワンカット濃厚で、クリエイター達の意地と熱意にあふれている映画を二回とも興奮しながら見ていた。

そして、私はやはりあの夕焼けに彩られたロサンゼルスの丘でタップダンスをするシーンがどうしても気になっていた。

 

これってもしかして。実写で撮ってない?

 

映画用語でマジックアワーという言葉がある。

太陽が地平線に沈む瞬間、地平線が鮮やかな夕焼け色で覆われるわずか10分間のことを言う。

この10分間を捉えるのは至難の技で、ほとんどの映画はCGなどでごまかしているという。

私は学生時代に自主映画を撮っていて、この夕焼け空で覆われた瞬間を撮るのに苦労した覚えがあった。

本当に10分間しかないのだ。

空全体が綺麗な夕焼け色で覆われるのは1日に10分しかない。

そのわずか10分間に向けて、カメラや照明のセッティング、役者さんの演技指導などを決めていかなければならない。

その夕焼け色のシーンを撮るだけで1日の大半を準備で使ってしまうほどだった。

 

 

 

もしや、この丘の上のタップダンスシーン……

すべて実写でロケをして撮ったのではないか?

そう思えて仕方がなかった。

 

そうじゃないと前後のカットに色彩が変化するのが説明できないのだ。

本物のマジックアワーの光を撮っているから、後のカットで同じ色の光を再現できなかったのだと思えた。

 

私は毎度のこと映画ならこの人にお任せの映画評論家の町山智浩さんのラジオを聞いてみることにした。

 

すると、やはりな。

やっぱりなと思った。

 

あの丘の上のシーン……すべて実写で撮っていたのだ。

二日にかけて5テイク録ったらしい。

 

夕焼け色に染まった地平線を背景にタップダンスをするシーンは3分近くの長回しだった。

わずか一日につき10分間のマジックアワーの時間に、3分の長回しを撮ったことになる。

とんでもなく集中力がいることだと思う。

その貴重なマジックアワーの10分間のために、背景には相当な計画と練習量があったのだと思う。

カメラや照明、衣装など、何もかも念密に計算された3分間の長回しだったのだ。

主演のエマ・ストーンとライアン・ゴスリングはこの貴重な10分間のために、死ぬほどタップダンスを練習して、二人の呼吸を合わせていったのだと思う。

 

 

たかが3分間の長回しだが、その3分間の背景には1000時間という血道な練習量と緻密な計画がないと、あんなシーンは撮れないと思う。

 

私はクリエイターの底力を感じてしまった。

それだけ濃厚な練習量とチームワークで、10分間の勝負の時間に向けて集中し、熱意を込めて撮られたシーンだったのだ。

 

すべてのエネルギーを向けて、異常なまでの執着心と集中力で撮られたシーンなのだ。

 

私はプロ野球で活躍するダルビッシュ有選手の投球への姿勢を思い出していた。

プロ野球の世界では、投手は普段は肩を壊さないために8割ほどの球を投げて、試合のここぞという時のために、肩を温めておく。

 

この一瞬に向けて普段の食生活から練習まで全てをコントロールしているという。

ダルビッシュ投手になると一日に何個もプロテインを飲み、普段の食事から神経を研ぎ澄ませて、ここぞという勝負の時に向けて、日常生活から準備をしている。

 

そこまでやらないとプロのレベルでは通用しないのだ。

一球を投げるために、その背景には血のにじむような努力と異常な執念が隠されている。

 

「ラ・ラ・ランド」もそんな異常な執念とクリエイターの熱意が何層にも積み重なった映画だったと思う。

その熱意が積み重なり、集積していって2時間という尺の映画になっているのだ。

 

たかが丘の上でタップダンスをする3分間のシーンだが、その背景にはここぞ! 

という勝負に向けた異常なまでの執着心と熱意があったのだと思う。

 

私は最近、ライティングを始めるようになったが、そこまでの熱意を込めて自分は書いているのか? と思った。

たかが2000〜5000字の記事かもしれないが、3分間のために、全集中力を持って行き、貴重なマジックアワーのシーンを撮っていた監督のような熱意はあるのかと思ってしまった。

 

いつの時代も、作り手のプライドと熱意が積み重なった作品が人々の心を掴むのかもしれない。

 

そんなことを考えせられる映画でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼らがなぜ歯科医でありGReeeeNなのか? そのことを知ったとき、私は……

映画

 

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「何でここで坂本龍馬が……?」

私は先日GReeeeNの映画「キセキ あの日のソビト」のラストシーンを見ている時に、スクリーンを見ながらそう思っていた。

 

ラストシーンでGReeeeNのCDが並んである棚のそばに「竜馬がゆく」が並べてあったのだ。明らかに意図して配置されたショットだった。

よく考えれば映画全体もどこか坂本龍馬を暗示されるシーンがちりばめられていた。

 

GReeeeNのリーダーであるHIDEがCDショップで買うCDもなぜか、坂本金八を演じた武田鉄矢が歌う海援隊だった。

 

私は坂本龍馬が大好きだった。

高校時代に幕末の受験勉強のために読んだが、止まらなくなり、勉強をそっちのけで「竜馬がゆく」を全巻読んだのを覚えがある。だから、浪人したのかもしれない。

 

波乱に満ちた幕末を変えるべく、全国を走り回った坂本龍馬の姿に私は涙してしまった。彼のような幕末の英雄がいることで、今の日本があるのだということを痛感した。

本当に受験の近代史対策に軽く読み始めただけだった。

しかし、読み始めたら止まらないのだ。

龍馬が脱藩して、日本全国を走り回るあたりから、超絶面白いのだ。

私は当時、本当に夢中になって読んでいたと思う。

 

 

GReeeeNの映画を見ている時も、やたらと坂本龍馬が出てきて、私は懐かしくなっていた。そして、何でこんなに坂本龍馬が出てくるのだろうと不思議に思っていた。

 

私は本来、音楽には疎い人間だったがGReeeeNぐらいは知っていた。

歯科医を続けながら、今でも覆面アーティストをしているグループだ。

私はこの映画を見てからGReeeeNの音楽、いや彼らの生き方に興味を持ち始めていた。

 

なぜ、彼らは歯科医を続けながらGReeeeNをやっているのか?

それが気になって仕方がなかった。

映画だと、どうしても大衆向けに少し脚色している部分があったと思う。

 

映画を見ただけではわからなかった彼らの本当の物語を知りたかったのだ。

 

 

私はGReeeeNの4人がたどったキセキの物語が描かれたノンフィクション本を手に取った。ノンフィクション作家が5年の歳月をかけて4人の近辺を取材し、彼らの青春物語を約500ページ近くにまとめたものがそこにはあった。

 

 

読んでいて驚いた。

本当にこんなキセキが起こったんだ。

こんなことが起こるんだ……

 

平凡な歯科医大生の歌声が全国に響き渡るまでの物語がそこにはあったのだ。

私は驚くと同時に彼らがたどった青春物語を夢中になって読んでいった。

 

そうか、映画でもやたらと坂本龍馬が出てくるのはそういうわけだったのか。

 

GReeeeNのボーカルであるHIDEは大の坂本金八坂本龍馬ファンだったのだ。

どれくらい好きだったかというと、坂本龍馬が好きだという理由で高知の寮生の学校に

親元を離れて中学と高校時代を過ごすほど坂本龍馬が好きだったのだ。

 

彼の太陽のような歌声は全て10代の大半を過ごした高知の人々から影響を受けているという。

 

GReeeeeNの源流はほとんどHIDEが過ごした高知での坂本義塾のバンド時代の影響が大きいのだ。好きな音楽に夢中になり、好きな音楽を歌っていた日々が相当色濃く反映されているらしい。

 

坂本龍馬の影響を受けたGReeeeNのボーカルHIDEの物語を読んでいるうちに、私は自分自身の大学時代を思い出していた。

私も好きなものと向き合い、坂本龍馬に憧れた一人だったのだ。

 

 

 

 

「大学に入ったら映画を作る!」

私はそう意気込んで大学に入学したと思う。1年間の浪人の末、私はエネルギーがあり余っていた。何かを作りたいという熱意が溢れかえり、意気込んで大学の入学式を迎えたと思う。

大学に入ってすぐに映画サークルに入った。

映画サークルと言っても作りたい人が自分で仲間を集めて、映画を自由に作っていくというスタイルだった。

 

私は先輩の撮影などに参加し、ある程度の撮影のノウハウを学んだら、カメラも使ったことがないのに、いきなり映画を撮ってみることにしてみた。

最初はピントの合わせ方すらわからなかった。

しかし、勢いと若さの至りに任せてカメラを持って走り回っていた。

 

自主映画作るのにも多くの人の協力が欠かせない。

カメラ、照明、音声など5分の短編でも5人以上のスタッフやキャストの協力が必要なのだ。

私は図書館で勢いに任せて脚本を書いて、人に声をかけて、撮影チームを集めていった。大学時代には7本の映画を撮った。

ヒーロースーツを着て子供がいる公園を走り回ったこともあった。

4ヶ月以上かけて1時間の映画を作ったこともあった。

10リットルの血糊をばらまいて、事務室から3回も呼び出しをくらうこともあった。

 

そんな風に映画漬けの日々を送っていた。

私はただ多くの人と関わりながら一つのものを作り上げていく過程がたまらなく好きだったのだ。映画作りはどこか坂本龍馬がしてきたことに似ているのかもしれない。

 

いろんなところに走り回り、ロケ地の交渉やキャストの出演依頼をして、仲間を集めて映画を作り上げていく……

龍馬も全国を走り回り、薩摩と長州を結びつけ、幕府を倒していったように、

私もいろんな場所に走り回り、多くの人の協力のもと映画を作っていった。

 

映画作りを通じて、いろんな出会いがあった。

公園で撮影していたら田植えのおっさんたちの仲良くなり、夜まで飲み明かしたこともあった。なぜかドイツ人がひょっこり現れて、仲良く家までついていき、ドイツ映画と日本映画の違いについて熱く語った時もあった。

 

いろんな人と出会い、協力しながら一つの映画を作るのは本当に楽しかったのだ。

自分の生きがいはこれだなとも思えた。

 

知り合いに映像業界に進んだ人が何人かいたので、飲みに連れて行ってもらい、自分もそういった世界に進みたいと打ち明けてみた。

 

すると……

「映像業界だけはやめておけ」という返答が来た。

なぜだ? と思った。実際にその方は映像の世界で10年以上生きていた。

きっと映画が好きだったのだろう。それなのに映像の世界はやめておけという。

 

聞くところによると日本における映像業界は完全な下働きとしか見られておらず、少ない給料で短い時間で仕上げてくれる制作会社に仕事が回るような仕組みになっているという。無茶な要求と過酷な制作環境で多くの人が体調を壊し、挫折していくのだ。

 

ハリウッドはきちんとした労働組合が存在し1日の撮影は11時間までというルールがあるが、日本の場合は組合すらない。

そのため、1日30時間に及ぶ過酷な撮影をすることもあるという。

 

日本のクリエイティブ産業は、好きでやってるんだから、死に物狂いで働け! と言ってクリエイターをこき使う風潮があるようなのだ。

 

「映画監督なんてなりたくなてなるもんじゃない。いくらヒット映画を作っても食っていけない」

世界的に評価されている是枝監督もそんなことを言っていた。

 

私は現実の過酷さを知り、どんな道を進むべきか迷っていた。

普通の企業に勤めるか、制作会社に入り、自分の夢を追いかけるべきか。

結局、私は数ある企業の中から内定が出た制作会社に勤めることにした。

 

好きでもない仕事を嫌々するよりかは、好きなことを仕事にしたほうがいいと考えたのだ。

私は普通のサラリーマン家庭で生まれ育った。その反発からか普通のサラリーマンだけにはなりたくないと思っていたのだ。

 

大学を卒業して私は制作会社で働きだした。

 

想像を超える過酷な環境だった。

1日30分しか寝れない日々が続いていた。

同期で入社した人は次々と辞めていった。

辞めた人の分の仕事も自分のところに回ってきた。

 

私はどんどん精神的に追い詰められていった。

こんなはずじゃなかった。

 

そう思っていた。

好きなことを仕事にするのは本当に難しいということがわかった。

好きだからこそ、つらいのだ。自分の理想と現実のギャップを知り、苦しくなるのだ。

 

 

私は数ヶ月の間に8キロも体重が減ってしまい、結局会社を辞めてしまう。

家で動けなくなってしまった。

 

このままではまずいと思い、東南アジアを放浪してみたりもした。

ラオスの山奥まで行って、寺にこもって瞑想してみたりもした。

しかし、結局答えは見つからなかった。

 

日本に帰ってから、ふとしかきっかけでライティングの魅力に気づき、こうして文章を書くようになっていたが、書いている時もどうしても迷っている自分がいた。

 

書くということは、その人自身の生き方が反映されてくる。

生き方が面白い人が書いた文章は、自然と人を惹きつける面白い文章になるのだと思う。

 

平凡で中身が空っぽな自分が書いた文章なんて面白くないと思えたのだ。

ものすごいバズを発生させているような記事を書く人は、その人自身が面白いのだ。

そして何より、仕事を懸命にやっていて、貴重な時間を使って全力で記事を書いているのが身にしみてわかる。

私のようなフリーターのプー太郎が書いた記事と明らかに重みが違うのだ。

 

社会に出ても挫折した自分は、ようやくライティングの魅力に気づけた。

しかし、自分が書いた記事に自信が持てなかったのだ。

 

そんな時にGReeeeNの映画と出会った。

GReeeeNの物語と出会ったのだ。

 

私は同じく坂本龍馬好きということもあり、HIDEの人生観や太陽のような才能に憧れを抱いた。とにかく彼は人を惹きつける人らしいのだ。

 

ノンフィクション本を読んでいる時に、ある一節がとても気になった。

それは「竜馬がゆく」から引用された箇所だった。

 

 

「人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある」

その箇所を読んで私は思わず泣きそうになった。

 

GReeeeNのほとんどのメンバーが医大に入るため3年近くの浪人生活を送っていた。

遠回りしてようやく見つけたのが、歯医者という道だったのだ。

親にも大変な苦労をかけたので、曲が売れてレコード会社10社以上からオファーが来ても「自分たちは歯医者になる」という決意は曲げなかったという。

 

 

今の時代はマルチクリエイターの時代だという。

消費社会に疲れ果てた人々は、良いコンテンツさえあれば自然とSNSでバズを広げていってくれる。今の人々は頭が良いため、下手な広告やPRが通用しなくなったのだ。

 

そんなマルチクリエイターの時代の先駆けを作っていったのはGReeeeNだったと思う。

歯科医とミュージシャンという二足のわらじは、忙しい合間を縫って曲と向き合うため、一瞬の集中力が試されるため、音楽にきちんと向き合えるのかもしれない。

ミュージシャンだけをやっている人だと集中力がどうも途切れてしまうのだと思う。

 

歯科医をしているため顔を出せなかった。そのためロゴとメンバーのイニシャルだけを作り、曲というコンテンツの力だけで、自分たちの音楽を広めていったのだ。

 

 

いつの時代も世の中を変えていくような人は業界の外からやってくる。

君の名は。」の新海誠監督も元々サラリーマンをしていた人だった。

アニメーター出身の方ではないのだ。

 

坂本龍馬も幕府の人ではなく土佐藩を脱藩した浪人だった。

当時の日本では、浪人は武士でもないただの除け者のような存在だったのだ。

しかし、そんな浪人である龍馬が多くの人々を結びつけ、日本を変えていったのは事実なのだ。

 

GReeeeNは日本の音楽シーンを外から変えていった。

20代の大半を遠回りして、ようやく見つけた歯医者という道を進んで行く傍らで、日本の音楽業界を変えていったのだ。

 

彼らの姿を見ていると回り道も悪くないと思えてきた。

もし、彼らが歯医者を目指してなかったら、ここまで人々の心を動かすような名曲の数々を作れただろうか?

 

回り道をしてきたからこそGReeeeNの名曲が生まれてきたのだと思う。

 

私は社会に出ていろんな挫折を味わった。

大学をストレートで卒業して、社会人として頑張っている同級生の姿をSNSで見れなくなった時もあった。

 

社会人を懸命にやっている人たちを見ると自分の情けなさに気づき、後ろめたい気持ちになることもある。

 

しかし、そんな回り道もいいのかもしれない。

回り道をしてきた私だからこそ書ける文章があるのかもしれない。

 

私は4月になったらまた社会人として働き出すことになるが、忙しい合間を縫って、きちんと書くことだけは向き合おうと思う。

 

きっと忙しいからこそ、集中力が研ぎ澄まされ、今の自分には書けないような記事が書けるかもしれない。

GReeeeNが忙しい合間を縫って、音楽と向き合ってきたように私もきちんと書くということに向き合わなければ。

 

そんなことを思うのだ。

 

 

 

 

紹介したい本

「それってキセキ GREEEENの物語」 小松成美

 

 

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コミュ障だった私が見つけた、喋りという名の防衛本能

 

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「俺、実は全く勉強できないんだよね」

とある芸人がテレビ番組でそう言っていた。

私は驚いた。

 

え? 勉強できない? めっちゃテレビで知的そうなイメージあるんだけどな。

その芸人はアメトークの家電芸人などによく出演していて、知的で物知りのイメージが強かった。

 

「家族の中で一番勉強ができないんですよ。日本史なんて全くできません。アホですアホ」

よく考えたら、その芸人はイメージでは物知りだと思っていたが、クイズ番組などに出演しているところを見たことがない。

クイズが苦手だとわかってるから、あえて出演していないのかもしれない。

 

 

喋りというものは私が長年抱えていた問題だった。

私は全く喋れなかった。

どうも人とのコミュニケーションが苦手だったのだ。

 

私は幼稚園の頃、あるサッカーチームに所属していた。

幼稚園の頃は、チームメイトとよく会話をして、よく遊んだりもしていた。

友達の家に行って、ゲームで遊んだりもしていた。

 

活発な子供だったと思う。

しかし、幼稚園を卒業するタイミングでチームメイトとは別々の小学校に進むことになった。

「また、遊ぼうね」

「じゃあね」

そんなことを行って別れたと思う。

 

そうしているうち小学校の新生活が始まった。

私が通い始めた小学校では幼稚園からの知り合いがほとんどいなかった。

ほぼ誰も知り合いがいないクラスの中、それでも私はクラスに馴染んでいった。

小学校のクラスの雰囲気が好きだったのかもしれない。

 

新しい新生活に慣れ始めた頃、幼稚園から続けていたサッカーチームの練習が始まった。

久々に幼稚園の友達に会えるのだ。

私はウキウキだった。

 

私は自宅から自転車で練習場所の公園に向かっていった。

公園にはもうチームメイトが集合して、練習を始めていた。

「おはようございます」と挨拶するのがそのチームのしきたりのようなものだった。

 

私はこれまでと同様に挨拶しようと気持ちを一気に固めた。

「おはよう……」

私は自分の異変に気付いた。

声が出なかったのだ。

あれ、おかしい。

なぜ、声がハキハキと出ないんだ。

 

「もっと声を出せ」

とチームの先生に怒られた。

 

私はこれまで幼稚園の同級生とは何不自由なく会話ができていた。

しかし、幼稚園を卒業して、私だけが別の学校に進むことになった。

他のチームメイトのほとんどが同じ小学校に通っていて、そのまま親しいもの同士の

グループが出来上がっていた。

 

私はこれまで自然に話していてチームメイトとどこか距離を感じ、突然話せなくなってしまったのだ。

グループからつまはじきにされているような気がして話せなくなったのだ。

 

私は居心地の悪さを感じながらもそのサッカーチームを続けていた。

辞めますという自信がなかったのだ。

いてもいなくても変わらないのに、そのチームの練習には顔を出していた。

「早く練習終わらないかな」

そんなことを思いながら練習に向かっていた。

 

思い返すと私はそのサッカーチームで空気のように振舞っていたと思う。

いてもいなくても変わらない存在。もちろんスタメンではなかった。

同じ小学校に通う仲の良いチームメイトとは壁を猛烈に感じてしまい、コミュニケーションが取れなくなってしまったのだ。

 

自分で人との壁を作ってしまったのかもしれない。

小学生だった当時の私にはその出来事が猛烈にトラウマになっていた。

 

結局、私は小学5年生の終わりまで、そのサッカーチームを続けていた。

辞めますと言い出せなかったのだ。自分はいてもいなくても変わらない存在だとわかっていたのに、辞めると言い出せずにいた。

 

その経験が猛烈に影響を受けてか、大好きだった自分が通う小学校のクラスでも、うまく馴染めずに、クラスの隅っこにいるような生徒になってしまった。

 

どこか人との間に壁を感じる。

なぜか、突然喋れなくなってしまったのだ。

 

そして、小学6年生になり、中学にあがる段階になって私は喋るということを諦めてしまった。もう無理だ。人とのコミュニケーションは諦めようと思ったのだ。

 

それでもクラスの中心的な人たちに私は憧れていた。

しかし、自分はそんな存在にはなれないことがわかっていた。

喋れないからだ。

 

どうしても人との間に壁を作ってっしまう癖ができていて、私は喋れなくなってしまっていた。中学校では他人に悪口を言われても言い返せずに、ずっと腹の中に溜め込むような感じで3年間を過ごしていたと思う。

 

人とのコミュニケーションが苦手だ。自分の殻にこもっていた方がいい。

そんなことを思っていた。

ずっと殻にこもって生きてきたと思う。

 

しかし、喋りというものが猛烈に必要になる機会があった。

 

それは就職活動だ。

 

就活は学歴がある人の方が有利なのはもちろんだが、何よりも喋りがうまく、面接官に好印象を与えられる人が圧倒的に有利だった。

グループディスカッションなど、テーマをきちんとまとめ上げることができるリーダー的な存在の人はもはや就活で無双していた。

 

どこの企業を受けても内定をもらえていた。

私は喋りやコミュニケーションというものが大の苦手だった。

しかし、就活でいい企業に入るためにはどうしてもこの喋りというものを克服しなければならない。

 

私は就活関連の本やコミュニケーションの本を読んで、人を惹きつける喋りについて勉強していった。

滑舌が昔から悪かったので、滑舌の本も読んだ。

 

模擬面接などを受けて、面接官に好印象を持たれる喋りを必死になって考えた。

しかし、無理だった。

どうしても小学校から続く人との間に壁を作ってしまう癖が抜け出せずにいて、面接官との間に距離を感じてしまうのだ。

私は結局、ほとんどの企業で内定をもらえなかった。

 

 

思うに、世の中喋りが上手い人が勝つのだと思う。

芸術の世界もそうで、映画監督として名を馳せる人はセンスのいい映像を撮れるというよりかは、人を惹きつける喋りができる人間が世の中に出てくる。

 

映像のカット割りなどはカメラマンに任せとけばいいのだ。

監督はスタッフや映画会社のお偉いさんをまとめあげて、指揮をとれる人間の器があるかどうかが一番の肝になってくる。

 

アニメ評論家の岡田斗司夫も同じようなことを言っていた。

庵野秀明がすごいのはアニメーターとしての腕はもちろんだけど、何よりもあいつは飲み会で目立つんだ。大学の同級生との飲み会でもいつも中心にいるのはあいつだった。とにかく人をまとめていくのが上手いんだ」

 

 

喋りが苦手な私はどうしたらいいかずっと悩んでいた。

就活の時も喋れない自分に悩んでいた。

世の中喋れる人間が勝つのなら、喋れない私のような人間はどう戦えばいいのだ。

そんなことを思って、無駄にコミュニケーションなどのハウツー本を読んでは喋りについて研究していた。

 

そんな時にこんな本と出会った。

松本紳助

それは伝説のお笑い番組を本にまとめたものだった。

松本人志島田紳助が二人でしゃべり尽くすこの番組はリアルタイムでは見たことなかったが、YOUTUBEなどにアップされていて、私はたまに古い回を見たりしていた。

独特な喋りをする松本人志と猛烈なカーブを投げ込んで笑いを取っていく島田紳助のコンビでしゃべり尽くすこの番組は今でも多くのファンがいるという。

 

私もYOUTUBEにアップされている二人の会話を聞いていて面白いなと思っていた。

そんな番組の内容を本にまとめあげたものを本屋で見かけ、私は早速読んでみることにした。

 

さすが天下の松本人志島田紳助だから、人生観や考え方が普通の人と違って面白い。

私はのめり込むようにして二人の会話をまとめた本を読んでいった。

 

そして、ある一行が気になった。

それは喋りについてまとめた箇所だった。

 

二人は喋りというものを商売にしている。

そんな喋りのプロは喋るということをいったいどんな風にして考えているのだろうかと思っていた。

 

二人はこう語っていた。

「喋りは防衛本能。全てを学ばなくていい。阪神タイガースの選手の名前を答える時も、メジャーじゃないマニアックな選手をあえて熱く語っていれば、自然と相手は阪神に詳しい人だなと思ってくれる。そうやって勉強ができない自分を喋りという防衛本能でごまかせる」

 

喋れる人は頭の回転が速いわけでも、ものを多く知っているわけでもない。

喋りの引き出しのトピックの持ち出し方がうまいのだ。

 

外側の難しい話を一個知っているだけで、内側のことまで全部知っていると勝手に判断されるのだ。

 

私はずっと多くの外側の知識を詰め込まないと喋れるようにはならないと思っていた。

何か特別なコミュニケーションのツールがあると思っていた。

しかし、そんなものはなくて、あえてマニアックなものを喋るだけで、自然と相手はこのことに詳しい人だなと判断してくれるのだ。

 

全てを学ぶ必要はない。肝心なことを知らないでも世の中渡っていける。

そんなことを二人は語っていた。

 

喋りはただの防衛手段なんだなと思ったら、コミュニケーションにコンプレックスを抱いていた私は少し気持ちが楽になった。

 

全てをうまく喋ろうとするのでなく、特定のマニアックなものだけをトピックに持っていく防衛手段を使いこなせさえすればいい。

それが世渡り上手の人の秘訣なのかもしれない。

 

私も喋りという防衛本能を使いこなせるようになりたい。

そんなことを最近は思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ゆとり世代に告ぐ】私は、ありのままで生きたいと思っていたけども……

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「ありのままの君たちの姿を映画で描いてください」

とある学生映画祭で審査員を務める映画監督の人がそう言っていた。

 

「学生映画なんだから技術はどうでもいい。それよりも君たちが何を感じ、何を考えているのかをぶつけてくるような熱い映画を見たい!」

そんなことを言っていた。

 

その時、私は客席からそんな審査員同士のディスカッションを聞いていた。

 

ありのままを表現してください。

ありのままの自分でいてください。

 

ゆとり世代である私のような人間には常に「ありのまま」というキーワードがついて回っていたと思う。

 

ありのままに生きよう。

自分らしくあろう。

 

そんな平成のゆとり教育を受けてきた影響か、今の若い世代にはノマドワーカーやフリーランスという生き方に憧れを抱く人が多い。

(自分も似たようなもんだが……)

 

学生時代に私が自主映画を作っていた時も、この「ありのまま」というのがネックになっていた。

「もっと自分を吐き出せ!」

「あるがままに自分というものを表現しろ!」

 

どこの学生映画祭を回っても、そんな風潮が良しとされていた。

自分が学生だった頃は、園子温監督の映画がブームだったので、彼のように人間の中に眠るドロドロの気持ちを吐き出すような作品が多かったのだ。

 

私もそんな学生映画祭に流れる自主映画を見ていて、ありのままの自分を表現すれば評価されるんだなと思っていた。

その頃は死ぬほど自主映画作りに熱中していたため、何が何でも学生映画祭で賞をとって、大学生のうちに頭角を出す! と私は張り切っていたのだ。

 

家にこもっては自分を掘り下げていって、自分のありのままというものを脚本に込めてみた。

自分を深掘りしていって、頭を抱えながら書いた脚本は、友達に見せたら割と評判は良かった。

 

これならいける!

この脚本なら賞を狙えるぞ。

 

そう思い、急いで役者をやってくれる子を探して、約四ヶ月以上かけて映画を作っていった。今回だけは生半可な気持ちでやりたくない。自主映画だからといって馬鹿にされたくない。そう思い、少ないバイト代を使って、本物の大学病院でロケをしたりした。

病院ロケは大変だった。

学生の自主映画といっても、いろんな手続きを踏まなければならないのだ。

診察室を使える時間も限られていた。照明など細かくチェックする暇もなかった。

普通に考えて、このカット数をわずか3時間で撮りきるのは無理があった。

 

しかし、どうしてもこの映画だけは撮り切りたかったのだ。

自分のありのままが詰まった映画なので、私は異様な熱意を込めてその映画を作っていたと思う。

カット割りを極端に減らす方法を考え、撮影2週間前から早撮りできる方法を考えていった。

その甲斐あって当日はスムーズにテキパキ撮影できたと思う。

 

撮影していた時は、2月の真冬の季節だったので、凍える寒さに耐えながら私はカメラを持って走り回っていた。何週間も前からロケ地である聖蹟桜ケ丘の坂道を走り回ってはいい絵が撮れる場所を探していた。

 

私は毎日カメラを持って、映画を撮り続けた。

こればかりはきちんとした形にしたい。

あるがままの自分を見て欲しい。

そんなことを思っていたのだ。

 

 

完成した映画を上映会で流してみた。

私が四ヶ月も走り回り、死に物狂いで撮った映画だ。

見る人はどんな反応をするのか楽しみだった。

映画は約60分だった。自主映画にしたら長編の部類になる。

 

 

上映が始まった。

お客さんはちらほら入っていた。

少ない人でもいい。

自分のありのままが人に届けばいい。

 

中盤から異変に気付いた。

なんだかお客さんたちが寝だしたのだ。

 

体を揺らして明らかに映画に飽きていたのだ。

そしてほとんどお客さんが寝てしまっていた。

 

私はショックだった。死に物狂いで真冬の聖蹟桜ケ丘を走り回り、自分のありのままが詰まった自主映画は誰の心にも届かなかったのだ。

 

今ならわかる。それは自分の独りよがりに過ぎなかったのだと。

カメラも全て自分でやり、脚本も全て自分が作り、編集も自分で全てやった。

捨てるべきシーンもここは自分にとって大切にしたい場所だからと言って、あえて詰め込んだのだ。

見直してみると無駄なシーンばかりで退屈されるような映画になっていた。

 

私は当時、結構落ち込んでいたと思う。

自分のありのままを表現しても誰も見向きもしてくれない。

どうしたら自分をもっと吐き出せるんだ。

 

そんなことを思っていた。

 

就活の時も、ありのままということがネックになっていた。

自分と企業との相性でほぼ決まる就活は、よく恋愛に似ていると言われている。

ほとんど相性がいい企業とめぐり合えるかどうかなのだ。

 

面接官も数多くの就活生を見ているため、能力や学歴以上にその人の体から発せられる雰囲気や言葉遣いで内定を出すか出さないかを決めている。

 

なんとなくこの人は仕事できそう。なんとなくこの人は会社の社風に合わなそう。

など、日本の就活は全てがなんとなくで決まって、よくわからない物になっている。

 

就活アドバイザーの人はよくこう言っていた。

「面接の場では話を盛らないでください。ありのままに喋って、相性がいい企業に入れた方が入社してからのミスマッチが減ります!」

 

私もありのままの気持ちで面接に挑んでみることにした。

「私は自主映画を作っていました。多くの人と関わりながら映画を作ることは〜」

などとありのままに自分がしてきたこと、自分が考えていることを企業の面接官にぶつけていった。

自分を演じずに、ありのままを話していった。

 

すると結果は……

 

 

ほぼ全て落ちた。

 

ありのままの気持ちをぶつけた方がいいって言ったじゃん。

素直な気持ちで、面接官に話した方がいいって言ったじゃん。

 

私は社会から必要とされてないような気がして相当就活には苦しんでいたと思う。

日本社会に蔓延る「ありのままでいよう」「ありのままの自分でいよう」という風潮に私はうんざりし始めていた。

 

しかし、ありのままで生きるためにフリーランスノマドワーカーといった自由を謳歌できる仕事に就く自信はなかった。社会人経験が極端になく、空っぽな自分には、そう言った世界に飛び込んでいく勇気がなかったのだ

 

私はずっとありのままの自分とは何なのか?

ありのままで生きるって何なのか? と考えていたと思う。

 

ライティングの魅力に気づき、こうして文章を書くようになっても常にありのままということが意識にあった。

ありのままの自分がこもった記事の方がバズるのか?

あるがままの記事の方が人に思いが伝わるのか?

そんなことを気にして書いていたと思う。

 

しかし、ある時気付いた。

ありのままでなく、ある程度自分を演じるということは相手への優しさになっているのかもしれないのだと……

 

私は2017年はとにかく書くということを大切にしようと、毎日記事をワードにまとめて書いていた。人に見せるのは恥ずかしいので、パソコンのフォルダに書いた記事を保存していったのだ。

しかし、人に見せることを前提に書いていないので、どんどん自分の殻にこもったものを書くようになり、書くのが苦しくなった時期もあった。

 

自分を掘り下げていったも空っぽな自分に気づき、虚しくなるだけだ。

私は書くこと自体が苦しくなってきた。

 

このままではダメだと思い、こうしてブログに書いて無理やり人前に見せるようにしていったのだが……

 

人に見せることを前提にして記事を書いていくと、不思議と書くことが楽になったのだ。書くのが楽しくなったのだ。

 

ここはこうした方が読みやすいかな?

このタイトルはインパクトあるかな?

 

など常に読む人の目線に立って、書くようにしたら楽しくなったのだ。

 

あるがままに生きられず生きづらさを感じていた自分は、常に自分のことしか考えていなかったのかもしれない。

ありのままの自分で居られる場所を求めていたのだ。

 

しかし、世の中自分の思い通りになることなんてほとんど無い。

 

あるがままに生きようとするのではなく、相手のことを思って何をするか?

ということが一番大切なのだと思う。

 

常に相手をどう楽しませたいかを考える。

相手の視線に立って考えていくと、自分が抱えていた生きづらさがなくなるのだ。

 

私はライティングを通じて、ようやくそのことに気づけた。

 

 

あるがままで生きようとするから、自分を傷つけてしまうのだ。

自分を傷つけないようにするためにも、他者への思いやりというものが大切なのかもしれない。

それが、私たちゆとり世代の人間が最も大切にすべきことなんじゃないかと最近は思うのだ。